中山道ウオーキング

                                                                                               森本 俊



平成
22716日(金)午後330分、梅雨明け初日の炎天下、我々6名(柿本、鈴木、田中、中垣、西川、森本)は中山道 中間地点(江戸、京都双方から6738町:約268km)に到着しました。 前日には雷鳴、豪雨で荒れ狂い灰色の濁流に渦いていた木曽川を横目に見ながらである。少し大げさに表現すれば 南極地点に到達したような気分でありました。

思い返せば2 年前、折からのNHK大河ドラマ‘篤姫’に惹かれ、和宮様降嫁の道である中山道を‘歩く会’のトレーニングを兼ねて歩いてみようということになり、‘中山道を歩く’ツアーに参加することになりました。京都三条大橋から東京日本橋まで近江、美濃、木曾、信濃、上野を経て13532丁(約534km)、69宿、東海道より40kmも長い道程を3年数ヶ月掛けて歩く遠大な計画です。
京都からスタート地点までバスで行き、ある区間を歩いたら又バスで京都に戻り、次回はその先を歩くという形で街道を繋いでいく歩き方です。

景色も点で観るのと点と点とを線で繋いで観るのでは大違い。だんだんと変わって往く風景には山だけ観ても、比良山脈を眺めた「大津宿」、右手に近江富士と言われる均整のとれた三上山を眺めて歩いた「守山宿」、鈴鹿北部の昔と変わらぬ美しい姿を望んで歩いた「高宮宿」、正面に伊吹山 がどっかりと聳えていた「柏原宿」、この伊吹山の影響で雪に悩まされた「今須宿」、「垂井宿」。そんな中でも多くの旅人が出会いすれ違ったであろう‘逢坂の関’は‘歩く会’でも歩いた懐かしい坂である。本陣で最大級と言われる草津宿木屋本陣では現存する宿帳に先人達の足跡を偲び、近江商人発祥の地とされる五個荘では白壁と船板囲いの蔵屋敷の前を流れる用水に綺麗な錦鯉の泳ぐのも観ました。
宿中の人口は中山道 2と言われ、古い街並みや紅柄格子や卯建を持つ家が残り静かで落ち着いた雰囲気の中にも街道情緒が残る「鳥居本宿」。そして、今でも街道沿いに美しい水が湧き出している地蔵川の川沿いの満開の桜の下を歩いた「醒井宿」。この川には冷涼な湧き水を好むハリヨという小魚と白い可憐な花をつける梅花藻 が生息して、私には初めての対面でした。この街道の忘れられない美しいスポットになった近江路でした。

ツアーは中高年の方が大部分で、ご夫婦で参加の方も数組、男性の姿も目立ちます。
16回までは日帰りで、我々は‘同級生の8人組’とツアー仲間から羨ましがられました。ツアーの平均年齢を引き上げていることなど何方も気付いていない中、口と足とが同時進行の楽しいウオーキングは、これから佳境に入ります。美しい木曽川の流れに沿って御嶽山、恵那山、はるか行く手には木曾駒ケ岳や南アルプスの山々を眺めながらです。

美しい松並木が延々と続く先の「関が原」古戦場に400年前の天下分け目の戦いを垣間見、別名‘姫街道’といわれる中山道の「美江の宿」には皇女和宮さまの婚礼行列の足跡がありました。
絢爛豪華な降嫁の大名行列は文久元年(1861年)1020日京都を出発し26日には「赤坂宿」を出て「加納宿」に泊まっています。この6年後には幕府は倒れています。この間、姫様は4回往復され、最後の時には供の者数十名であったとか。中山道随所に見られる姫様ご休憩所、お茶を点てられた処etc、籠に揺られての道中は優雅な休憩ではなかったであろうと和宮様のご苦労が当時の時代の流れの厳しさと共に偲ばれます。
 「鵜沼宿」を出たら‘うとう坂’、ここからいよいよ土の道になります。深い緑と鳥のさえずりの気持ちの良い、やっと中山道らしい‘うとう峠’の山道でありました。峠越えの後、透き通った水の色が美しい木曽川に沿って、日本ライン下りの絶景、奇岩を眺めながら快適に通過した「太田宿」は古い屋敷や枡形など、懐かしい雰囲気が残る町でありました。雪を頂いた御嶽山を眺めながら、草付道や石畳がある本格的な長い長い山の道には比較的完全に保存された一里塚が、街道の雰囲気を伝えるとともに現在の我々の歩く目安にもなりました。深い緑に包まれた道の上り下りを私達は以外と楽に楽しく歩くことが出来ました。   

いよいよ、中山道の‘道’という意味でのハイライトコース。左方には御嶽山を望む素晴らしい展望が開け、右方には常に恵那山の雄大な姿を眺めながら歩いた「大湫宿」から「落合宿」は美濃路の最後でもありました。日本一長い石畳の琵琶峠の登り道は400年前のそのままの姿で私達を迎えてくれました。「大湫宿」から「大井宿」までの道は13峠といわれる峠が沢山ある上り下りの続く3里半と長い道程です。西の琵琶峠、東の13峠に挟まれた「大湫宿」は中山道の重要な宿泊地で本陣もあり、街並みも宿場の雰囲気がそこはかとなく漂う別世界でありました。その昔、上り下りの多かったこの道は人だけでなく馬にとっても難所だったようです。
美濃の人にとっては木曾路への入り口である「中津川宿」は正面に恵那山を望む江戸中期~後期の宿場情緒が豊かな高地の街。そして、このあたりは今まで最高の36000歩も歩き、上り詰めた峠から恵那山の麓に広がる棚田の美しい「落合宿」を眺めた感激はこの道中最高のものでした。

本年4月「大湫宿」からは12日の行程。 枕投げこそしませんでしたが修学旅行なみの賑やかさ!道中、ツアー仲間から若い若いと年齢を錯覚するような結構なお言葉を頂き、年齢不問で通してきた私達にも年相応の珍事が続出!涙を流してお腹が捩れるほど笑った!笑った!昨今めったにないような経験もいたしました。
 中山道の現存する本陣8件の中で最も往時を偲ばせ、今も古い町並みが残る「落合宿」を出、深い木立の中、旧街道の当時のままの姿を残す十曲峠の石畳(全長840m)の急坂を上ると‘なんじゃもんじゃ’(1葉たご)の珍しい杜に出会いました。雪を冠ぶったように樹木全体を満開の真っ白な花で染め上げた、それはそれは美しい大樹の集まりでした。これも私には初対面の花木でありました。
 いよいよ、「すべて山の中」の木曽路である。そして「夜明け前」を再読する機会を与えてくれた場所でもあります。約600mの石畳の坂道に沿った「馬籠宿」、約500mの石畳に沿った「妻籠宿」の家並には宿場雰囲気が残り、多くの観光客が行き交って賑わっていました。木曾11宿の中で活性化に成功した場所で少なくとも、外観は  完全に江戸時代の宿場の様子を保っています。古い家並みが続き生活臭もする人里でありますが、あまりにも整備されすぎていて、かえって物足りなく思ったのは私だけでしょうか。
 
馬籠峠を越え、水量豊かな雄滝、女滝で水しぶきを浴びながらマイナスイオンを胸一杯に吸い込み、のどかな山の中の道をひたすら歩く。「木ひとつ、首ひとつ、抜本一本うで一本」と持ち出しご法度の木曾五木「檜木、椹、明檜、高野槙、𣜌(ねずこ)」を観察しながら、かつては険しい山々が木曽川に迫る難所であった南木曽、「三留野宿」を過ぎて再び山間を縫う木曽川に沿って北上して往きます。
 宿の中央に用水路を通し、豊富な湧き水を檜の大木を刳り抜いた水槽(水舟)に溢れさせ、共同井戸として利用している羨ましいようなエコの生活!折からの暑さでこの水を浴びるほど飲んで体液の総入れ替えをいたしました。何処を通っても水の涼やかな音がする「今須宿」も忘れがたい宿でありました。
 時折、顔を覗かせる中央アルプスの山々や木曽駒が岳を望み、国道ではあるが木曽川沿いを歩き、水際まで降りて対面した‘寝覚めの床’は木曽川の流れとともに迫力ある絶景でありました。「上松宿」はもうすぐです。大型ダンプや車がビュンビュン通る国道からは、木曽川の断崖絶壁に架けられた桟道で当時、木曾街道最大の難所とされた‘木曾の桟’も見えました。‘木曾の桟’を歩く当時の人々も命がけなら、歩道のない国道を歩く我々も命がけであります。山と山が木曽川に迫り、アリ一匹這い出る隙もない、立地の重要性が一目瞭然の「福島宿」。

宿泊行程になってからは56名になった私達も、中山道中間地点を次回に控え、この夜は木曾の銘酒‘七笑い’で大笑い!飲めないお二人も雰囲気に飲まれ大いに盛り上がり、 楽しく過ごした木曾の一夜でありました。

 ‘‘古希の頃で~す ♪想い出してご~ら~ん あんなこ~と ♪こんなこ~と♪あ~ったでしょう ♪’’ と佳き想い出に繋げてゆきたいと思います。

そして、中山道後半。あと1年余りを元気に完歩出来ることを心から願っています。(H22.8.3)

             (なお小さな写真はクリックで大きくなります)

参加者(敬称略)

   赤井峰子、芦田洋子、柿本能子、杉本育子、鈴木久子、田中公子、中垣清美、中村淳子

西川和子、御池いづみ、森本俊子


inserted by FC2 system