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山内孝之君を悼む
平井 匠
私の学友にして恩人でもある山内孝之君の異変を告げる電話が山川君から入ったのは、亡くなる前日の午前11時頃だったと思う。とるものもとりあえず病院に駆けつけたが、
既に昏睡状態にあり言葉を交わすことは出来なかった。安らかな眠りについており、このまま帰らぬ人になるとはとても思えなかった。翌日もお見舞いに行かねばと思いつつ仕事に追われ時間が経つうち、奥様とバッタリ顔を合わせたので容態をうかがったところ、残念な結果となった旨告げられた。社員にも訃報を伝えたが誰も狐につままれたような顔をして、あの元気な人が急逝するなんて信じられないと口にしていた。盛大な通夜・葬儀が営まれ彼の人徳を偲ぶ人達が大勢集まったのもむべなるかなと思われた。此の人物の思い出を寄せてと山川君から電話があったので、古い記憶に間違いがあるのはお許しいただくことにして思い出をつずることにする。
彼を強烈に意識したのは、大手前高校3年の運動会だった。競技者以外は席がクラス別に割り振られていたが、その大勢の中に一人サングラスをかけたヤケニ目立つ男がいた。その男こそ山内君だった。綽名は「ギャング」。当時サングラスをかけるのは俳優かやくざ者と相場は決まっていたが、彼はとてもカッコ良く俳優のように見えたのは育ちの良さのせいか。彼との出会いは大手前1年の春、柔道場を覗いた時に姿を見たのが最初だと思うが、とても硬派の男と見た。高校時代は同じクラスになることは無かったが、後に神戸大学へ一緒に進学する伊丹栄一君と一緒に、久宝寺のお店で会った時はじめて言葉を交わした。彼も同じく神戸大学に進み、六甲台のグランドで時々顔を合わせた。柔道場がグランドの隅にあったので、テッキリ柔道をやっているものと思い込んでいた。ある時「柔道はどおや」と尋ねたところ、「ボート部に入った」といわれ驚いた。ボート部には大手前一年先輩の山本皓司さんも入っておられたが、頑健な彼は猛練習に良く耐え、その水に馴染んだようだ。神戸大学は我々の年代が応援団を創設した経緯もあり、初代応援団長菅君(32年北野高校卒)が音頭取りとなって、よく集まり、旧交を温めている。有馬での一泊会合の後、彼の車に5、6人が便乗して大阪迄帰ってきたが、彼は此の車を「磯つり特急」と呼んでおり、此の頃彼が磯つりに熱中しているのが推し量られた。私が今の商売を始めて3年程経ったとき彼を訪ね、松村組の紹介を頼んだところ、快く即座に社長の松村君(神戸大ボート部の1年後輩)に電話をかけ、取引の端緒を付けてくれたが、その親切さと行動力に感激した。大手前高校の同級生諸君とも疎遠になっていた私に、燦々会へ出るように強く勧めて頂いたお蔭で、又皆さんと親しくお付き合いをさせたもらえるようになって感謝に堪えない。松屋町のビルに事務所を置いている時、ヒョッコリ訪ねてきて、常盤町のビルに空室が出たからそこを使ってくれないかと言われて見に行った。当時社員が30名いたので少し手狭なのでお断りしたが、数年後又やってきてどうかと言う。丁度社員が16名になっていたので、再度見せてもらい、事務所を移転することにした。それ以来一緒に遊ぶ機会が増え、充実した日を過ごさせてもらっている。彼の麻雀仲間にゴルフ敵がおり、二人タッグの会社戦を年3,4回行っていた。私は「目くそ鼻くそ合戦」と呼んでいたが、通夜に敵のお二人が合戦を懐かしまれ、「もう合戦も出来ませんな」と言われ、寥々たる気持ちになった。他にもゴルフでは「クエ鍋」を賭けた勝負に相乗りして敗れたり、思い出は尽きない。ゴルフ好き・世話好きの彼が、船場中学のゴルフの永久幹事を昨年遂に降りてしまったが、今となるとなにか体調に異変の兆候を感じたのかと思ってしまう。
多趣味で行動派の彼は、つりにもよく出かけ、釣果の上がったときは帰りの道中から電話をくれ、夜の酒肴に供してくれたり、タイミングの悪い時はクーラーに入れて土産にしてくれているときもあった。毎年鮎シーズンになると名人たちと鮎つりに出かけ、仲間に天然鮎をご馳走してくれたのも懐かしい。
山スキーも愛好し本場アルプスまで遠征していたし、最近はカヌーもやっていたが、これらについては同行の志からの寄稿にお任せしたい。
容貌からは想像できないかも知れないが、音楽も嗜み、特にジャズは良く聴いていたし、興が乗れば唄うこともあった。結構いい声をしていたので、よくもてた。
常盤町界隈に飲食店は結構あるが、彼はどこでもいい顔だった。お蔭で私も楽しく飲み食いさせてもらっている。そんな彼が急に旅立ってしまったが、その実感が湧かない。思えば船場のボンとして、何の悔いも無い生涯を送られたと思えるのが、残された我々の救いとなっているように思える。遅かれ早かれ私たちもそちらへ往くことになる。望むらくは、私たちが往ったときスグ間に合う佳いところを探しておいてください。又楽しく一緒に遊びましょう。
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