3.山内さんには、本当にお世話になりました。思い返せば、いろいろな接点がありました。大手前では2年生の時に同じクラスで席も近かったように思います。この時のエピソードで、ご本人は覚えていないそうですが、遅刻の本人より先にお弁当が届いて出席の代返をしてました。そんなことから、私はつい最近まで彼は船場のボンボンで一人っ子と思い込んでいました。
いっときはバレー部にも所属してられたように思いますし、大学は違いましたが偶然、同じくボート部に入り試合会場でお会いしたり、大川の橋の上から女子ボート部全員(といっても5人)で黄色い声で声援したり、辻久子のリサイタル(何故か辻久子はボート部がお好きなようで各大学の資金稼ぎのコンサートによく出演してくれました。)やダンスパーティーの券売りのお手伝いをしたりしたことを懐かしく想い出しています。
時は流れて60歳を過ぎた頃からは「歩く会」でご一緒になり、70歳を過ぎてからは麻雀でお部屋を使わせて頂き楽しんでいます。
とりわけ、「歩く会」では何時の頃からか彼の後ろが私の指定席になり、彼の後ろにくっついて歩くのが恒例になりました。山内さんがゆっくりと同じペースで先頭を歩いて下さり、30分毎に小休止して下さるので 、「歩く会」落ちこぼれの私がこの歳まで怪我もせず、山歩きが楽しめたと心から感謝しています。
無口な方で、ほとんどおしゃべりすることなく、私が後ろだと、背後が全く気にならないらしく振り向くこともなく黙々とマイペースで歩かれ、従って、ややこしい場所に来ても手を差し伸べてくれることもなく(残念!)でした。今、思えば足の調子も悪く、目もご不自由だったようですので、彼自身も一生懸命だったのでしょうね。
時折、私達の間に他の方が入ったりハプニングがあると気を遣われて歩くペースが乱れ、ペースが乱れると 調子が狂いバテられました。そして彼のペースが狂うと私も調子が狂いバテました。
二人とも比良山で大バテしました。伊吹山でもバテました。長峰山でもバテました。山内さんと私はバテ仲間でもありありました。そして、私達は結構いいコンビであったと自負しています。
彼のこのゆっくりペースなら天国まで、まだまだ時間を要しましたでしょうに、どうして急にピッチをあげて駆け上がってしまったのでしょう?皆が追いつくまでには まだまだ時間が懸かりますよ。
怪物の山川リーダーが生存(山川さんは、我々大手前の同級生仲間では最後まで生き残るThe Last Oneと言われています)する限り、「歩く会」が無事故で楽しく存続するように、時々は天国から、「速いのんちゃうか?山登りはゆっくりがいいんやっ」と例の調子で言って下さいね。 本当に頼りにしてましたのに残念で、あっけなく惜しいし悔しいです。
10月28〜30日の上高地では随分お元気で、最後の山登りとなった徳本峠への登り降りは何時もより速いピッチでした。
上高地の帰りに 西梅田で素敵な笑顔でお別れしたのが最後になりました。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
森本 俊子
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