学生時代の思い出など
  
 1.山内孝之君の思い出

彼との思い出は書ききれない。他人には伝えきれない。だが敢て、依頼に応えて、拙文を書くが、こんな紙数では到底、書ききれない。

 

@   神大ボート部での出会い

彼の最初の印象は、大阪船場の商家の御曹司とは似ても似つかぬ茫洋として少年のようだった。

一緒に苦しい練習もしたのだが、今では楽しい遊びの方しか覚えていない。北アルプスの登山や、冬に、皆なを白馬にスキーに連れて行ってくれたのは彼だった。

A   彼の結婚

拙妻の友人(恵美子さん)と彼を我家に招いてお見合い、その後、お互いが気に入って結婚にゴール。作戦成功!私の両親が仲人を務めた。以来、我々家族ぐるみの交際が続いてきた。

B   スキー

スキーでは、我家の娘たちと一緒に、北海道や信州(志賀高原)で楽しんだ。

彼はまた、スキーから遠ざかっていた晩年の私を再びスキーに引き込み、あちこちに誘い、遂にはカナダまで連れて行ってくれた。

C   酒肴

彼は無類の酒好きで、我家も同じ。そこで我家の三人娘も屡々「ヤジ(彼の素晴らしい綽名)のおっちゃん」と一緒に杯を酌み交わしてきた。一方、彼は釣りをよくし、時に、釣果を届けてくれた。

D   ニュージーランド

私が語学留学でニュージーランドに滞在中、「来るか?」と誘ったらビックリ、来てくれた。

二人でレンタカーを借りて北島を一週間を掛けてドライブ。この時の楽しい思い出(海水浴、ゴルフ、潮干狩り、カヤック、ヨットなど)は忘れられない。

E   片目でゴルフ・運転

彼は生来強度の色盲で、赤と緑の識別が出来ない。ある夜、盛り場で些細な揉め事に巻き込まれて左目の視力を失い、晩年は片目で遠近感が無く、それでもゴルフ、釣り、スキーなどを皆と平然と付き合ってきた。彼の車の運転は最も心配だった。

F   総じて彼は風貌に似ず、非常に優しい性格で、私は半世紀以上の長い付き合いの中で、彼が怒った姿を見たことは一度も無い。深い感謝と共に、冥福を祈るや切である。

                           神大ボート部 友人 折茂周一

 
  2.山内孝之君のこと

                              御池 宏

 1113日の夜 電話がかかってきました。最初はウソだと思いました。そして次の瞬間 頭が真っ白になりました。でも未だ半信半疑でした。夜遅く、千藤君からメールが入りました。これはホンマかもしれないなと思いました。

 山内君、僕は約40年前、君にも話ししたことがあると思いますが、一度あちらの世界を覗いてきました。臨死体験もしました。あちらはなかなかいい世界ですよ? 女性も若くて綺麗だし、花もいっぱい咲いていました。君の好きな山も近く、常春の世界ですよ・・・僕達も早かれ遅かれそちらに参ります。今度会ったら同窓会しようね!!

 山内君と僕は今橋にあった集英小学校に5年生の1学期から一緒に転入し、同じクラスに編入されました。この時5年生は2クラスで、担任の先生の名前がクラスに付き、山本学級と名前が付いていました。(他の1クラスは阿川学級)

この時は転入者が多く、同じ山本学級に56人入ってきたと記憶しています。僕らのクラスは女の子の勢力が強く(今でもそうですが)増して転入生の僕達は小さくなっていて、どちらかと言えば、余り目立たない存在だったのではないでしょうか?

 山内君は南久宝寺の家から堺筋を市電に乗って通学していました。僕は天満橋まで歩いて、京阪電車通学でした。

 集英小学校は町の真ん中の学校で運動場が殆んど無く、千里山に集英寮と云う田舎体験が出来る宿泊可能な施設と大きな広場?(運動場?)があり、1年に数回利用していました。秋の運動会もここで行いました。秋のある日、僕達の組は集英寮へ1泊2日で出かけました。集英寮から少し離れた所に立派な民家があり、熟した柿がいっぱい生っていました。僕は門真で毎日木に登っていましたから、得意になってその木に登って柿の実を採りました。確か山内君も一緒に登ったと思います。その結果見事にばれて(多分その家の人から寮へ抗議が有ったようです)集英寮に帰ってから先生にこっぴどく叱られ、僕と山内君と数人の共犯者と一緒にパンツ1枚で深夜まで先生の部屋の入り口で立たされました。暗くて大変寒かったことが、60年以上経った今でもはっきり覚えています。 ほろ苦い思い出です。

 その後、山内君とは中学、高校、大学まで同じでしたが、この話はしたことがありません。大学では彼はボート部に入っていました。ある日僕が入部していたバレーボール部の部室に彼がひょっこり訪ねてきてくれました。「バレー部は身体が臭くならないでええなあ」と云ってました。この頃ボート部は臭い神崎川で練習していました。「ボートが転覆して川に落ちたら体中が臭くなるわ・・・」と話してくれたのを思い出します。今日、神崎川はきれいになり、臭いもしませんが、ボート部の練習も多数の大学、社会人のボート部が集まる、大阪中之島の大川やっているようです。

 

 3.山内さんには、本当にお世話になりました。思い返せば、いろいろな接点がありました。大手前では2年生の時に同じクラスで席も近かったように思います。この時のエピソードで、ご本人は覚えていないそうですが、遅刻の本人より先にお弁当が届いて出席の代返をしてました。そんなことから、私はつい最近まで彼は船場のボンボンで一人っ子と思い込んでいました。

いっときはバレー部にも所属してられたように思いますし、大学は違いましたが偶然、同じくボート部に入り試合会場でお会いしたり、大川の橋の上から女子ボート部全員(といっても5人)で黄色い声で声援したり、辻久子のリサイタル(何故か辻久子はボート部がお好きなようで各大学の資金稼ぎのコンサートによく出演してくれました。)やダンスパーティーの券売りのお手伝いをしたりしたことを懐かしく想い出しています。

 

時は流れて60歳を過ぎた頃からは「歩く会」でご一緒になり、70歳を過ぎてからは麻雀でお部屋を使わせて頂き楽しんでいます。

とりわけ、「歩く会」では何時の頃からか彼の後ろが私の指定席になり、彼の後ろにくっついて歩くのが恒例になりました。山内さんがゆっくりと同じペースで先頭を歩いて下さり、30分毎に小休止して下さるので 、「歩く会」落ちこぼれの私がこの歳まで怪我もせず、山歩きが楽しめたと心から感謝しています。

無口な方で、ほとんどおしゃべりすることなく、私が後ろだと、背後が全く気にならないらしく振り向くこともなく黙々とマイペースで歩かれ、従って、ややこしい場所に来ても手を差し伸べてくれることもなく(残念!)でした。今、思えば足の調子も悪く、目もご不自由だったようですので、彼自身も一生懸命だったのでしょうね。

時折、私達の間に他の方が入ったりハプニングがあると気を遣われて歩くペースが乱れ、ペースが乱れると 調子が狂いバテられました。そして彼のペースが狂うと私も調子が狂いバテました。

二人とも比良山で大バテしました。伊吹山でもバテました。長峰山でもバテました。山内さんと私はバテ仲間でもありありました。そして、私達は結構いいコンビであったと自負しています。

彼のこのゆっくりペースなら天国まで、まだまだ時間を要しましたでしょうに、どうして急にピッチをあげて駆け上がってしまったのでしょう?皆が追いつくまでには まだまだ時間が懸かりますよ。

怪物の山川リーダーが生存(山川さんは、我々大手前の同級生仲間では最後まで生き残るThe Last Oneと言われています)する限り、「歩く会」が無事故で楽しく存続するように、時々は天国から、「速いのんちゃうか?山登りはゆっくりがいいんやっ」と例の調子で言って下さいね。  本当に頼りにしてましたのに残念で、あっけなく惜しいし悔しいです。

 

102830日の上高地では随分お元気で、最後の山登りとなった徳本峠への登り降りは何時もより速いピッチでした。

上高地の帰りに 西梅田で素敵な笑顔でお別れしたのが最後になりました。

ご冥福を心よりお祈りいたします。

森本 俊子

 
 4.11月12日船場中学の同級生のゴルフコンペ船五会に常連の山内君が欠席だった。体調を崩し3,4日前に入院したとのことだったが、まさか翌日に亡くなってしまうとは。

彼はこの会を一人で立ち上げ、長い間ずっと一人で世話をしてくれていた。

彼とは船場中学の同級生で、大手前では3年生で同じクラスだったが、話をした

記憶が無い。学校卒業後のゴルフコンペ燦々会や歩く会などで少しずつ親しくなり人柄も判ってきだし、更に、やがて髪の毛も白くなり、ひげを蓄えだしてからは、風貌が枯れ出して非常に親しみ易くなっていたが、それでも話しにくい男だった。

数年前の歩く会で能勢三草山に登り、その帰りに私の菜園に寄ってもらったことがあったが、皆が畑の野菜を摘んでいるのに、彼は一人畑の土手に座り、?取った

トマトを齧っていた。味には結構うるさい男が黙々とトマトを齧っているのが私にはとても嬉しかった(俺のトマトも大したもんやないかと)

彼はまた趣味人でもあったと思う。魚釣りは沖の磯に上がり、大物を狙っていたらしい。また、アユ釣りにも行くと聞いた。一緒したことはなかったが、渓流に竿を出す姿がなんとなく目に浮かぶ。大自然の中に、一人で置かれるのが好きだったのだろう。だからスキーや山歩きが好きだったのは頷けるし、ゴルフもその線上にあったのだろう。いろんなゴルフに参加し、また、コンペを立ち上げて世話を続けてくれたのは、彼が同級生との付き合いをとても大事に思っていてくれたからだと思う。それだけに彼の突然の逝去は、残念でならない。   合掌 岡本和雄

 
 5.  最後の燦々会

                              浅田通子

長年続いている恒例の第56回秋の燦々会が20131010日に行われた時、山内さんと同じ組でラウンドさせて頂きました。

それが山内さんとの最後のゴルフになったとは今だに信じられない気持です。

お互い燦々会での古いメンバーですのでいつもの様に気兼ねなく冗談を言いながら楽しくしていたのですが、山内さんのプレーがあまりにもしんどそうなのが気に掛かり自分のプレーも一瞬忘れてぼんやりとしてしまい同伴者の方に大笑いされた程でした。私も2年間のブランクがあったので余計その様に感じたのかも知れませんが今から思えば、ひょっとして体調の変化がお有りだったのかとも思ってしまいます。

山内さんは口数は少ないほうですが、何事も良く分かっておられ、とても気がつく心優しい方でした。何度もご一緒にラウンドさせて頂いていたのですが、どんな時も決して言い訳はされませんでした。このことは私が山内さんから教えて頂いた大切な教訓としてずっと心に残していきたいと思っています。

もう20年以上になるかと思いますが、当時彼は魚釣りがお好きの様でしたので、「ゴルフも、嫌がらないで、ずっと参加して下さいね」と云ったた事がありました。すぐに「嫌がってへんで〜」とおっしゃって下さり、燦々会も余程の事が無い限りいつも参加されていました。特にお世話になったのは、皆で車に乗せて頂いてワイワイ言いながらゴルフ場に向かう事が出来た事でした。

かなり昔には楽しいエピソードも聞かせていただき、我々女性軍が大いに盛り上がった事も懐かしく思い出されます。本当に残念でなりません。

船場中学も同じ組でしたので、E組幹事をご一緒にさせて頂き、幹事会欠席とのことを幹事長の千藤さんからお聞きし、一同心配していた矢先の訃報でした。こんなことがあるの?という気持ちは誰もが思った事でしょう。

いまだに信じられないと言う思いを抱いたまま、本当に悔しい、寂しい年になりました。

 
 6.山内孝之君の思い出
                                                            26.1.31 千藤雅弘 

突然の急逝、未だに信じられません。安らかに眠っていました。この世の仕事をやり遂げた安らぎだったでしょうか。少しですが思い出を記して追悼とします。

昨年119日(土)1434山内君から携帯に電話があった。1112日の船五会に行けないのでアッシーが出来ない、8日から体調が悪くなったと。少し弱々しく舌がもつれるような感じもあった。6日の近大マグロを食べる会では私の向かいに座り元気に食べて飲んでいた。2次会にも行ったと聞いている。おかしいなと思って架けなおすと息子さんに繋がった。7日の夜からおかしくなったが、その夜食べたタラの白子があたったと思っていたと。ちゃんとした病院で診てもらった方が良いよと言うと。様子がおかしいので8日の夕方大手前病院に入院して、今病院にいると。これは知らせておかねばと山川と船五会幹事の吉岡に連絡。11日(月)朝7時半ごろ山川から電話があった。意識のあるうちに来てやってくれと奥さんから連絡あったと。8時半大手前病院に駈けつけた、山川・西川さんも来た。酸素吸入のためかマスクをしていて、点滴の管も見える。荒い呼吸。熱もありそうだ。呼びかけると応えてくれるが、言葉にならない。奥さんを通じて励ましなどいろいろ話した。何かしゃべりたそうに顔や体を動かすが聞き取れない。内科部長の診察で敗血症と診断されて一応の手当てはされている、小腸に異変があるが、体力の問題があって手術できないということであった。金曜日の夜から土日と当直の医師しかいなかったが、今日は専門の医師が診てくれるので新たな治療が始まると期待はあった。しばらくいたが・・・回復を祈りながら病院をあとにした。その翌々日の13日(水)17時半頃山川から電話あり、1652死去されたと。15日(金)お通夜。16日告別式。あっという間の1週間。それにしても早過ぎる。何がどう悪くなったのか、何故こんなにも急激にと今も疑問である。腹回りが肥えて歩くのが遅くなってしまった時期があった。その辺りから病魔に襲われていたのではとか、あるいはもっと長い期間患っていたのではないかと思いは巡る。彼はそれを感じていながら我々には何も言わずに、最後の最後まで元気の良いところを見せて、結果としてはあっという間に逝ってしまったのではないかと推察する。葬儀の時息子さんから、親父は2度続けて断ったら次から誘ってくれないという付き合いの良い親父だったと聞いたが、やはりそうだったのだろうか。

私は昭和254月、疎開先の鳥取県から大阪に帰って来て、北浜にある大阪市立集英小学校5年生に転入。同時に彼はもう一つの別のクラスに転入した。集英小学校は大阪で最も古い名門の学校で校区は大阪船場、従って生徒は裕福な商売人・事業家の子女が殆どであった。私は校外からの越境、彼はもちろん学区内で南久宝寺町の小間物問屋の倅である。学校の近くや校区内で遊んでばかり、三越をはじめあちこちの街の様子を覚えている。もちろん彼の家も目に浮かぶ。しかし中学・高校と同じ学校に進学していて行動を共にしたという記憶があまりないのは、遊ぶ世界や趣味・興味が違っていたかと思う。その後大学時代は神戸と東京、ボートと剣道、接点は殆どなく、大学卒業後はそれぞれ仕事や家庭で殆どの時間を費やされ、お互いこの時期は多忙だった。私自身は小中高の友人とは概ね別世界で、誰が何処に進学し、何処に就職してどんな仕事をしているか知らずじまいの時期が長く続いていた。転機は昭和53年に営業の仕事に転勤、さらに56年枚方から中央区農人橋に転居と食住の環境が激変したこと。いろんな面で余裕ができたのか少しずつ交際範囲が広がり、同窓会にも参加するようになった。

近所住まいになってから、麻雀は何回もしたが、彼とその仲間はレベルが高くレートも大きい。所詮はサラリーマンの付き合い麻雀の比ではなく、カモにされ続けてやがて退散。いつだったか鮎を釣ってきたから食べに来ないかと電話があったが都合悪く断った。その後鮎を釣ったら呼んでくれと何回言っても声を掛けてくれなかった。一度断ったら二度とは呼ばないということになるかと残念だったことを思い出す。思い出の数々は同窓会。小学校・中学校の同窓会の幹事を一緒に長くやってきた。両方ともクラスの枠を外した学年全体の同窓会であり、クラスを代表して全体の幹事を仰せつかっていた。予定はカレンダーに書いているということだが、時々打合せを忘れて皆をあわてさせたがこれはご愛敬。幹事をいやな顔をせずやり遂げる、付き合いがいい真面目で信頼出来る仲間であった。宴会場・2次会の会場など彼の行きつけの店を随分と活用させてもらった。

彼の核心的な趣味はスキー・釣り・麻雀・酒だったと思うが、彼はゴルフも好きだった。大手前の燦々会、船場中学の船五会には多分皆出席。とりわけ船五会は殆ど彼が幹事で開催されてきた。プロのレッスンを受けていたとはいえ、腕前は決して上手と言えなかったが、気の合った友人とにぎって楽しむといったゴルフであった。家が近いのでほぼ毎回行き帰り乗せてもらって大いに助かった。ゴルフの帰りに友人から麻雀の誘いの電話がよく架かっていたが、ゴルフの後の麻雀とはタフだったのだろう。麻雀にならなければ飲みに行ったに違いない。ある夜自宅近くで、前をジグザグに走る車に注意したところ逆に殴られて左目がほぼ失明という負傷をした。長い間目撃者探しの警察の看板が出ていたことを思い出す。しかしその後、遠近が分かりにくいのによくも無事故で運転出来たと感心する。勘だと言っていたが、ヒヤリとした経験が何回もあった。それから先陣を切って黙々と歩いてへこたれない歩く会。食通の片鱗を随所に感じさせる食べる会。安心感があって皆に好かれた。彼も一人ひとりを大事にして、丁寧に付き合っていた。この時期の思い出は尽きない。

彼がいないからいろんな会は寂しくなる。食べる会は125日にあった。歩く会は212日、燦々会は516日、船五会は527日に決まっている。船場中学同窓会は42122日。集英小学校同窓会は6月、大手前高校学年会は10月か11月に開催されるだろう。これらの会は来年もさらにその次も続く。健康である限り参加しようと考えている。彼を偲びながら多くの同窓生と交流を深めていくことは、残り少ない日々のなかで大事な一日になるに違いない。

彼の小間物問屋は多分バブルまでは順調だったと思う。バブルがはじけて銀行の貸しはがしに追い詰められたのかそんなことを言っていたように思う。商売を縮小し、やがて店仕舞い。しかし奥さんの支えがあり、立派に成長された息子さん・娘さんがあり、随分心強かったはずである。山内ビルも健在であった。商売屋の旦那としての風情のままの彼を見ていて、最後まで思い通りに暮らすことが出来たと確信している。

心からご冥福をお祈りします。

 


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