スキーや麻雀、ゴルフなどの思い出
 

1.山内孝之さんの思い出

                         ゆきうさぎ 鎌田克則

                                                        (写真はクリックすれば大きくなります)

余りの突然の死去で、まだ正直実感が湧きません。思えば高々15年程でしょうか。決して長いお付き合いではありませんでしたが、その密度は濃いものでした。そのお付き合いの原点は「ゆきうさぎ」と言う山スキーの会での交流です。

山内さんはスキーがお好きでした。特にゲレンデを離れて今でいうバックカントリースキーに非常に関心が高かった。もともとその素質があったと思います。

何時ぞや八甲田山の酸ヶ湯温泉に行ったとき、学生時代に来たことが有って、すごく寒かったと言う話を聞いて成程と思いました。山内さんは私より3歳年下で、ほぼ似たような時代を過ごしていますので、当時冬に八甲田山に行くと言うことは、余程物好き、山とスキー好きであったと言うことです。昨年の豪雪で、酸ヶ湯の裏山の積雪が5mを越えて話題になりましたが、それ程の所です。その後お付き合いが出来てから何度もそこを一緒に滑って居るのです。

そもそも山内さんとご縁が出来たのは、私がひょんな動機から「ゆきうさぎ」の会に入れていただいたことに始まります。

私は京都出身で、小学校4年かられっきとした山岳会に属し、中学、高校は山岳部、大学はワンダーフォーゲルに、且つスキーは中学1年から高校山岳部について練習し、特に高校山岳部が非常に伝統ある山岳部(そのOB会は、日本山岳会登録c_ントツ1位)で、その先輩に有名な登山家や探検家がぞろぞろいて、その大先輩が直々山に登る道具としてのスキー術を徹底訓練してくれました。お蔭でいかなる悪条件下でも必ず帰還できる能力が身に付きました。その意味で所謂山屋であり、スキーヤー出身の方々とは過去の世界が異なりました。

その中で山内さん(以後彼と呼ぶ)とはその素質において相通ずる所が多く、お互い非常に信頼し合い、特に私の提案する計画には、海外を含むあらゆる計画に殆ど参加されたように思います。私も彼が参加されることを常に考え計画しました。

ヨーロッパアルプス、カナダ、北海道、東北、関越、信越、信州、美濃他近畿近郊等数え切れません。彼にとっても私にとっても60歳以降の山スキーのほとんどは一緒だったと言えるでしょう。大げさに言えば,生死を共にしたと言えます。よって期間は短いけれど、中身が濃いと申し上げるのです。

思い出は数々あってとても書ききれませんが、5年ほど前までは、彼はなかなかのもので、たまたま私は同道出来ませんでしたが、白馬、雪倉経由蓮華温泉ルートの完走は、かなり苦労したと聞きますが、彼の山スキー歴の最高峰と思います。

また、彼はかなり危なっかしい所が有り,阿波やと思うことも度々でしたが、持ち前の度胸で何時も切り抜けていました。何時ぞや厳冬期の北海道のニセコの奥で,私が先頭を滑って居りましたら突然ストップの声、振り返ると50m手前に赤いこんもりした物体が有り、その前に靴が付いたままのスキーが走って来るのです。

それを止めて良く見ると、彼がつんのめってばったり前向きな倒れ、その際スキーと体が離れる筈が、靴から足が抜け、靴付スキーが走ってきた次第。

通常セーフテイーが効き、靴とスキーが離れれば、スキーは自動的にブレーキが掛かるのですが、靴が付いていますからそのまま靴付でスキーが滑って来たのです。まるで漫画の世界、大笑い。彼はお腹が大きくて、靴のバンドをきっちり締めずそのまま滑るものですから、そんな事が起きるのです。

思えば通常のスキーヤーではなかなか経験できないルートを沢山こなしております。イタリー側からマッターホルンの肩を越えてスイスのツエルマット迄何度か往復(お葬式の時の写真はその時のもの)し、またモンブランの麓のシャモニ―に滞在、山岳ガイドを雇って3842mのエギュードミデイーよりバレイブランシシュという大氷河下るとか、あちこち氷河を滑って居ります。

その意味では彼にとって山スキーではそれ程思い残すことは無かろうかと思います。

その後彼はだんだんと体力が落ち、そのくせ意欲だけは前のまま、行きたければ酒をやめてほしいと何度も言いましたが、酒を辞めるぐらいならスキーを辞めると言われて強力に説得出来ませんでした。

昨年サンモリッツに同道し、春には谷川岳の沢を一緒に滑りましたが、2度目は辞退されました。昨秋また今シーズンの打ち合わせをしようと日程の問いあわせが有り、その返事が遅いなあと思って居りました所、突然奥様より死去の知らせ、これ程驚いたことは有りません。

彼とは単に山スキーと言う趣味の世界での付き合いでしたが、他方彼は事業家であり、私は彼の近くで税理士業を長年やって居り、その世界でも相通ずるところが大いにありました。要は詳しい話をしなくとも何でも通ずる肝っ玉の大きい、それでいて気配りの聞く人でした。親しい友人を亡くしたと悔やんでいる方も多いと思いますが、私もその一人です。

曾て山で死んだ友人の事で、なぜ彼が死んで私でないのかと友人達の前で言ったら、神は神の気に入った人を召されるとか。今はそう思うしかありません。

どうか山内さん、安らかに。

 
   2. 

“山内さんを想う”

 

                                                      山スキークラブ・ゆきうさぎ  木村 恒夫

私は東京在職の末期に山スキーを始めましたが、退職帰阪してから            (写真はクリックすれば大きくなります)

 
 サングラスの片眼を無くした山内さん
 
 蔵王温泉スキーでアフターを楽しむ山内さん
 
 北海道・チセヌプリ頂上にて

山スキーをするグループを探すも見つからずゲレンデ・スキーの範囲で遊んでいました。

 その内に大阪スキー協の中に山スキーグループが有ると知り、門戸を叩いたのが山スキーの会の「ゆきうさぎ」でした。

 この会の事務局をされていたのが山内さんで「来るもの拒まず」と受け入れてもらい、その後奥美濃、東北、北海道さらに海外までご一緒させて頂きました。

 お陰様で今日まで楽しくて思い出深い山スキーが出来たのも山内さんのお陰と深く感謝している次第です。

早立ちは残念でたまりません。ご冥福を心よりお祈り致します。

                合掌

  奥美濃の大日岳にて休憩の山内さん
 
 岩木山・百沢コースで先頭を行く山内さん

 
 3.山内さんとの関わり

                                  

          山スキークラブ ゆきうさぎ 会長

                            島 正義   (写真はクリックすると大きくなります)

私は、雪が夜明かりに照らされて積もるときの音が好きで、その延長上にスキーが有り趣味となった。そして、ゲレンデに通い続けて三十年余嫌でも当然の如く技術は向上する。多分他の人はしないだろうが、私は最初から天気が良ければ1人でもゲレンデから板を担いで山頂を目指した。今で言う山スキーをゲレンデスキーと同時進行で行ってきた。然し腕前が上がる程危険な所も滑降するようになって自分でも恐くなって来た。1人では危ないかなと思うようになり、どうすべっかと考えていた時に「スキー協がどうのこうの」とのたまう訳の解らんおっさんと知り合った。それが故山岡氏である。山岡氏は大阪スキー協には山スキー部が無いからと、事スキーの話しになると熱弁家だった。私も数日考えて、じゃ山スキー部をつくっぺかと話しにのった。そして、北口山スキー研の丸山氏を顧問に立ち上げ設立会を開いた。其の時に丸山氏のつてで故山内氏も参加された。第一印象は物静かではあるが、髪も髭も茫々で「サダム・フセイン」みたくで強面に思えた。私は勤めもあって、土日休日スキーヤーの為そう多くは同行出来なかったが、2回程のスキー行で体力と腕前は把握できた。

ところが、クラブ創立1年半で私は東京へ転勤になってしまい益々同行の機会が無くなってしまった。東京はスキー行には非常に便利で新幹線で通勤のようにゲレンデに通えた。

東京生活2年程たった5月連休。4日間有るし雪倉岳でも行くかと思い立ち、メンバーを考えた。最初に浮かんだのが山内さんだった。氏は体力はそこそこだが非常に粘りがあって少しサポートすれば大丈夫と考えて其の旨を連絡した。

雪倉岳は山スキーヤー垂涎の山域であり滑り応えがある。ただ突然の計画で準備期間が5日間しかなかった。月曜に電話して水曜に返事を頂き、メンバーは他に佐藤氏との事だった。佐藤さんは元々山やさんだから安心感があった。

そして、土曜朝大阪と東京出発地は違えど現地で合流。栂池からゴンドラ・ロープウェイと乗り継ぎ自然園経由で小蓮華岳稜線を目指し、そして小蓮華三国境白馬山荘へと歩を進めるが夜行の疲れか山内さんは少々バテ気味に見える。然し天気はピーカン慌てる事も無いゆっくり々歩いても明るい内に山荘に着けると確信しているので焦りは無い。

思った通り山内さんは粘り強く歩いてくれて6時には到着した。お疲れ様。

翌日は、疲れが取れたのか順調に柳又谷源頭を滑り込み雪倉岳へ。雪倉岳は滑降には最高の山である。雪が多く全体がデロンとしている勿論ハードな部分も有るから気は抜けない。気分良くクリアーし今日の宿、蓮華温泉で疲れを取り休息。3日めも晴天、今回は運も良く3日間とも晴天でお肌には天敵でした。        

今日は、終着木地や無事下山し姫川温泉で汗を流す。皆さんお疲れ様。良き思い出となりました。あぁスキーは何と楽しいスポーツだろう。ライフスポーツとして、全く異論は無い。

そして、プライベートの部分ではホントに楽しい嫁さんも世話して頂き私にとっては恩人でした。今でも、宿で夜中にウィスキーのグラスの氷をカランと云わせながら嫁さんはどう、と、声を掛けられて へへいゃーいいもんですねべた惚れされていますから、と答えた事がまだ新鮮に残っています。

山内さんありがとうございました。                                                                    


 4.山内君を偲んで
                                              金山隆興
 「ま・い・どー・わ・し・やー」山内(やんち)は声ですぐ判ります。
夕方6時を過ぎる頃よく電話をくれました。私の会社の近くの小料理屋によく飲みにきていました。もと魚屋のおやじがはじめた店なので新鮮なネタを扱っていました。味にうるさい彼は、これも何軒か食べ歩いて見つけたようです。平日はこのパターンがほとんど日課のようになっていました。1時間〜1時間半くらいで切り上げメンバー(麻雀)が揃った頃を見計らって「ぼちぼち行くわー」で腰を上げて、自転車で我がビル(7〜8分位)に戻って行きました。メンバーが揃わない時は、仕上がってきた頃に、「つぎ行こうかー」で新地のスナックによく行きました。40数年前からやっている店で、オープンの頃から二人で通っていた店です。今でも「ま・い・どー」が聞こえてきそうな気がします。
 酒はもとより好きでしたが、麻雀、釣り、スキー、ゴルフ?、山歩き?等々。趣味は多彩で、釣り果があった時はよくいきつけの小料理屋で振舞ってくれました。
 あの茫洋とした雰囲気もひげを生やしだした頃から板についてきたようで、人のよい彼にぴったりはまっていたように思います。
 十数年前まで「山内会」というゴルフ会を主催していた頃は、10組くらいのコンペで賑わっていました。自社ビルのテナント、麻雀仲間、釣り友達等々、皆から慕われていたのでコンペを楽しみにしていた人達がたくさんおりました。
 口数は少ないが、ひと時一緒にいるだけで気持ちが安らぐ男がまた一人逝ってしまって誠に淋しい限りですが、お互いにそういう歳になってしまったのかなー。
 今はただ、彼のご冥福を祈るのみー。 合掌               

                                                (写真はクリックすれば大きくなります)
 
 5.              山内孝之君を偲んで

                                    坂井雅至

 山内君が持っていたゴルフ会員権が何箇所も紙切れになったバブル崩壊より前の頃の話で安いコースを探して頻繁に同行した。メンバーはいつも同じで山内君、井上憲一君、金山君と小生の4名である。山内君と井上君の個人戦がいつも見ものでグロス130〜150の低レベルな戦いながら大差で決着することは珍しく、いつも1〜2打差なので傍で見ていても実にスリリングで面白かった。

 両人は必死でプレーしているのに傍で楽しむのは大変失礼だし、山内君との個人戦はほぼ小生の勝ちで、帰りの食事代はほとんど山内君か井上君が支払うケースが多かったから、今思い出しても「いつもごちそうさんでした」という気持ちで一杯である。

 平成9〜10年の頃訳があって小生は玉造に住んでいた。山内君の家に近かったので彼が魚釣りに行った日は必ず招待してもらいごちそうになった。新鮮な造りや寄せ鍋等豪華な料理で飲みすぎた日は一泊させてもらった事もあった。途中からは同じバツイチ仲間の堀部君も同席して賑やかなひと時を過ごさせて戴きました。独り住まいは寂しかろうと呼んでもらった山内君の優しさを思い出して感謝しています。

 その頃のお礼を奥様に言いたかったのだが、通夜の日の参列者があまりにも多くて何も言わずに帰った事を後悔しています。
                                                (写真はクリックすれば大きくなります)


 
 6.「山内君を偲んで思い出すままに」

                            杉山 和雄

山内君との出会いは、互いに紅顔の美少年であった高校一年生15の春である。一年5組のクラス写真では隣に並んで写っているが、爾来60年の付き合いであった。

八尾市の疎開先から中学2年半ばに都会に出てきた田舎者にとっては、都会育ちが多そうな中で、自分では何か少し違うところが有るように感じながら、同じ位の背格好であったので何となく付き合いが始まったように思える。2年生は別クラスであったが、3年4組で又同じクラスとなり、ここでも同じ位の背格好の者が寄り集まっていて、その中に2人とも入っていた。この仲間とよく受験勉強を一緒にしていたようで、熱心にも下校後山内宅に寄ってまで続けたことが1度や2度では無かったように思い出される。ずっと後で聞いた話では、彼はこの頃 心ときめかせるようなこともしていたようだが、そんなことはおくびにも出さず、ひたすら人文地理等の暗記に二人で取り組んでいたのが思い出され、結構真面目にやっていたんだと今にして思えば不思議にさえ思える。

高校卒業後は現役の文科系と、こちらは浪人上がりの理科系と進路が大きく分かれ、当方が九州勤務を18年続けたこともあり、クラス会、学年会等で会う位であったが、50歳前後から時々ゴルフを通じて付き合うようになった。彼が主催する山内会なるコンペにも誘われてほぼ常時参加したので、彼の商売関係の人とも顔なじみになったし、同じ交野のメンバーにもなったことで、よく2人でどちらかの車で同行することが多くなった。この車中での往復2時間が恰好の談話室となり、政治経済から立ち入った話や下世話な世間話まで種々雑多であるが、随分と愉しいものであった。その内容は多岐に渡り、時に些細な事でも論壇風発の議論もあったし、「へえーそう言うことか」とか、「それほんまか」など、ニヤニヤしながらの話題も沢山有ったやに思われるが、これが途絶えてしまうのかと思うと何とも口惜しい限りである。

今でも電話をすると「まいど」と出てくるのでは思うのは私だけではないと思っている。

                          (写真はクリックすると大きくなります)    


  7.山内君 
                                            福知 武
ヤンチが神戸大学経済学部に入り、僕が神戸商船大学航海学科に入った一年生の時、神戸大学学内レガッタ大会に僕がヤンチの代理でボートを漕ぎました。我々船員が漕ぐボートは、タイタニック号の遭難時に乗船客を救助するために乗組員が漕いでいたあの大きなボートです。つまり、競争をするためのボートではなく、避難した乗客を乗せ救助船が来るまでの間彼らの安全を確保するためのものです。

スポーツカーとダンプトラックの違いです。水面を滑るような感覚を忘れることが出来ません。

一昨年にカレから連絡があり、神戸大学(神戸商船大学は神戸大学に吸収され海事科学部となっていた)の昭和37年卒業同期会の50周年の記念会があるので出席しないかとの誘いがあった。それと前後して、商船大学の同期生で神戸大学の監事をしていた友人からも誘いがあったので出席した。そこで、理学部卒業の宮井君に会った。

その時に会った、関東地区在住の人達とつながりが出来、今では、東京の帝国劇場の地下にある、神戸大学の東京事務所で毎月の十日1700時に集まります。その月の担当者が専門、趣味等に関する卓話を行い、食べながら、飲みながら、喧々諤々の論争があり、じじ、ばばが楽しく時間を過ごしております。それ以外に、昨秋に行った熊野古道旅行、ゴルフ、ワインの飲み会、新年会、忘年会と結構忙しく、昨年水先人会を定年で退会した後の毎日が日曜日の時間に彩を添えてくれております。

これからも、燦々会のゴルフには極力参加するつもりです。ヤンチがいないのが寂しいですがよろしくおねがいします。


 8. 思い出すこと          山川正彦                               (写真はクリックすれば大きくなります) 

 彼とは大手前の3年で一緒だった、出席番号が近いのでいつもそばいた筈だが、親しく話した記憶があまりない。成績が良くて神戸大へ現役で入ったほどなのに自慢することなど無かった。後年、お前は成績が良かったなと言うと家庭教師を付けて貰ったからや、とサラッと言っていた。神戸大のボート部だった事は何度も話したが。インテリぶらないところも彼らしいのかも、髭を生やすまではパンチパーマのおじさんで、黙っていたらその筋のお方かと思われる雰囲気もあった。ヤ―さんが大勢集まるゴルフコンペに出て140人の中でブビー賞のテレビを当てた事もあったそうだ。それでも意外に読書家でいろいろ多方面の本を読んでいた。藤原正彦の「国家の品格」なんかも・・・・・。

 まだ山スキーに一緒に行く前のことだから10年以上昔の話です。10名程度の仲間で水島造船所のホテルに泊まって、ゴルフ旅行をした時、夜の食事になって彼の具合いが悪くなり急遽、児島の病院に連れて行った。お陰で彼は勿論だが、私も美味しい夕食を食べれなかった。彼が体調を崩したのは長い付き合いでもこの時だけだったと思う。

 スキーでの具体的な話は別稿に書くつもりだが、それにまつわる思い出話も尽きない。スキーに行くと24時間それこそ一緒に行動する。部屋も一緒、朝から温泉に入って朝食でビールを飲み、一緒にゲレンデに出て昼食で一杯 10時、14時半の休憩ではコーヒーだが、彼はビールを飲む事もあった。16時には宿に帰り温泉に入ってビール、夕食ではビールのあと、日本酒を飲み 部屋に帰って仲間達と雑談しながらワインや焼酎など飲む。夜10時に温泉に入って寝るが、山内はそれからウイスキーの水割りを12時頃まで飲む。3日で一本空けるペースだ。彼は特にウイスキーが好きだったし強かった。
 寝る前に飲む時にいつもいろいろ話をした。スキーや山の話は勿論だが、お嬢さんや息子さんの話、自分は口べたで良くしゃべる人が羨ましいなどなど・・・

 釣りに行って成果があると我が家に届けたり、西川さん夫妻、我々夫婦と三家族で鍋をして貰ったりした。
 カヌーはスキー仲間の山崎さんが彼を気に入っていて、良く一緒に由良川などに行っていた。西川さん(旦那)と私も一緒した事があったが、カヌーが転覆して危うく溺れるところだったりした。9月後半だったか山崎さんと山内のカヌーが転覆して2時間ほど冷たい川を流されたことがあった。幸い無事に帰れたが、その時の寒さや恐ろしさから山崎さんはアル中になり、飲み過ぎから心臓発作を起こして亡くなった。山内はそのような恐ろしい経験を経ながらも無事にいたので、とてもこんなことで急死するとは思えなかったのだが・・・・ 

 彼はお金にきれいだった。スキーや山登りなどで数日間一緒に居て、最後に山川は○○円とかみんなからお金を集めるが、自分が一番多く払っていたし、その勘定もアバウトであった。一度、私がもっと払うと言ったら 珍しく声を荒げて「俺とお前の仲やないか、それだけでええんや!」と言ったことを懐かしく思い出す。 
  

 
 9.山内様へ
                                                  西川 和子

 2007年主人が腰の手術でスキーに行けなくて 山内 山川様にお願いをして蔵王に連れて行って頂きました。その後主人共々年に二回位スキーに出掛けました。
アメリカ コロラドのスキー場では山内様 山川夫妻 私達夫婦五人でコンドミニアムに泊リスキーを楽しみました。

 釣りのお好きな山内様は釣れたよーとお声が掛かり奥様のお料理で山川夫妻 時には田中秀和さんと私達夫婦が山内邸で御馳走になりました。山川邸 私邸の時もありました。
お酒の好きな男性陣は京橋に繰り出したり、三組の夫婦に歩く会の仲間も加わり大山登山や三組で三瓶山にも出掛けました。酔ってくるとカラオケに合わせて歌ったり、特に裕次郎の唄が得意な山内様のソフトな声に酔いしれました。

 歩く会で上高地に出掛ける前の晩、ハゲが沢山連れたと山内邸に集まり楽しい時間を過ごしました。翌日は素晴らしいお天気に恵まれ上高地を散策、徳本峠 岳沢と先導して下さいました。

 一週間後の食べる会では席が離れていてお話もせずお別れをして五日後大手前病院でお目に掛かった時には既にお分かりにならない状態でした。

 同級生でもなく同い年とゆうだけで主人まで親しく仲間に加えて頂いた事は私にとってこの上もない喜びと感謝でいっぱいです。奥様にもいつもお世話になり、お手伝いもせず引き上げる私達を温かくもてなして頂きました。有難うございました。

 どうぞ安らかに私達が行くまでお休み下さいね。



 10.スキーの思い出
                                    山川正彦            (写真はクリックすると大きくなります)
 ゴルフやお酒の付き合いはあったが、スキーを一緒したのは2001年の5月の立山が初めてだったかな。「お前、阪大のスキー部やろ、普通のゲレンデスキーでええから山へ行こ!」、一の越までスキーを担いで登り、そこから向こう側の谷(御山谷)へ滑り下りました。40年振りのスキーは体重が後ろに残る後傾になり、スピードの恐怖もあり様になりませんでした。
 そのあと東一の越までトラバースして、黒部湖に向かってのダウンヒルは高度差が600mほどあったのか、約3kmの爽快な滑降です。山内君は颯爽と滑っていました。当時の写真を見るとお腹も出て無くて若いですね!
 それから山スキーの道具を揃えて、乳頭温泉などで山スキーを楽しみました。「ゆきうさぎ」初代会長の山岡さんや吉崎さんなども一緒で、夜は酒を飲みながらスキーの話などを延々と繰り広げました。

 2005年、
マッターホルンのイタリア側の村であるチェルビニアに行くことになりました。鎌田さんの努力で別のスキーグループと合同のツアーでした。毎日パスポートを持って大きなゴンドラで山に登りスイス側のゲレンデを滑ったりしました。マッタ―ホルンの廻りを回りながら滑るので色々な角度からのマッタ―ホルンが楽しめました。

 標高3800mのクラインマッターホルンと言うところまでゴンドラで登り、一気にイタリア側のチェルビーノ村まで標高差2000mを滑り降ります。当時は山内君が元気で「スキーと言うもんは途中で止まらんで、、一気に滑り降りるもんや!」と言って飛ばしていました。脚力も技術も一番強かった時代です。この辺りの話は、このHPトピックスのコーナーをご覧下さい。

 その後スイスのグリンデルワルド(ヴェンゲン)、シャモニー、サンモリッツ、アメリカのコロラドなど海外スキーも楽しみました。

 その後、毎年八甲田山に行き樹氷を楽しみ、温泉での一杯が楽しかったです。大雪山やニセコのオートルートなども楽しみました。メンバーはゆきうさぎの鎌田、佐藤、松下夫妻、山内、山川が常連でした。鳥海山や月山も滑りました。

 この数年は山スキーが少し減り、蔵王で毎年12月にゲレンデスキーを楽しみます。そのあと山内君と西川和子さん、私達夫婦で御岳や万座その他に行って滑りました。最近は体力が無くなり、目のハンデイが負担になって来たのか、よく転倒していました。
 「ボチボチスキーも止めんとイカンな!」など言っていましたが、永久リタイアになるとは思ってもしませんでした。                       


 

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