第8回勉強会

日本語あれこれ

 テキスト

1.   橋本陽介著

「日本語の謎を解く 最新言語学Q&A新潮選書

2017年5月13日

京大楽友会館

報告者 : 松橋 二郎

------言語地理学の世界----- 

本書記載による記述は赤字表示です。

わたしの独自記述は青字表示です。

本書は次のような経緯を経て誕生しました。

著者は慶応大学、慶応志木高校の現役講師です。高校で「日本語の謎に迫る」という題の授業に先立ち「現代日本語、古文、漢文、英語、その他の言語について、疑問に思うことをできるだけ多く挙げよ」という課題を出し、全72名の生徒から総計250に迫る言語についての疑問が提出されました。 本書では、前半では日本語の音声や語彙、文字、日本語の変化などについて、気になる疑問を解決します。後半では日本語の文法、特に第六章の視点に関するもの、第八章の時間表現に関する解説等は、著者の専門分野である小説言語について自身の研究成果を盛り込んでいます。

 本報告では、前半に多くを割き、文法他は最小限触れることにします。今更、動詞の活用云々を聞きたい方はおられないでしょう。本書を十全に理解するためには割愛部分も必要不可欠です。個々に熟読してください。割愛分を補充する意味で、本書に記載されていない事柄についてわたしが調べたものならびに私見を披露します。

本書は73Q&Aで構成されており、その全てを取り上げることは出来ません。適宜、恣意的にQ&Aを取り上げて行きます。

1.      日本語の起源について(P19~30)

1-1. 言語起源について( 比較言語学の誕生から現代最新言語学まで)

イギリス人の裁判官サー・ウィリアム・ジョーンズはインド赴任中、サンスクリット研究を進め、1768年、サンスクリット、ギリシャ語、ラテン語、ペルシァ語等が同一起源の言語であると発表。この学説を引き継いだ19世紀の比較言語学では、各言語を歴史的に遡って研究し、前述の言語のみならず、ゲルマン諸語(独語、英語など)、スラブ諸語(ロシア語、チェコ語など)が同じ起源を持つ言語であると結論づけました。

元々の祖語を印欧祖語と名付け、その子孫にあたる諸言語をインド・ヨーロッパ語族と呼びます。推定ですが、印欧祖語の「起源」はおよそ五千年前と考えられています。

20世紀後半からの研究では、人間の言語能力を脳の機能から解明していこうという取りくみが始まっています。DNA解析の研究からは、人類が言語を獲得したのは5万年前くらいてはないかと推定されるそうです。そこでは、言語学は、脳生理学の下位部門と位置付けられます。

1-2. 日本語の起源

日本語の起源についての決定的な隘路は、漢字伝来まで文字を持たなかったということにあります。文字資料がないため、起源はおろか、その歴史も高々、二千年弱しか遡れません。朝鮮語との比較でみると、主格がある助詞「が」と「は」にあたる助詞の使い分けは、日本語と朝鮮語にしか見当たらない特徴であり、文法から見ると両者は違うところの方が少ないと言ってもいいぐらいです。

満州族言語、モンゴル語、トルコ語などの言語は、SOV(Subject-Object-Verb.)語順であり、語彙面でもいずれもラ行で始まる固有の単語がないなどの共通点があります。

このようなことから、日本語は印欧語族に対して、ウラル・アルタイ語族に属するとする説もありました。

 また、網野善彦「東と西の語る日本の歴史」によると、言語学者・大野晋の「西南日本と南方文化の結びつきが強い」説について言語学者の野村正良名大教授に尋ねたところ、酒席の上とはいえ、「西国方言は朝鮮語の変形です」と著者に明言されたとあります。また、古代新羅の言葉は、日本語とは発音の違いがあるだけで、それを調整すれば通じたとも言われます。

現在の有力な説としては、日本語は南北のさまざまな言葉が混ざり合ってできているため、他の言語との関係がよくわからなくなっている、と考えられています。

1-3. 日本語、アイヌ語、琉球語

日本には、通常使用する日本語以外に、特定地域で使用されてきた言語があります。一つはアイヌ語、もう一つは琉球語です。

1-3-1. アイヌ語

アイヌ語は、北海道、クリル諸島(北方領土+千島列島)、樺太、ロシア東北部のアイヌ人が使用してきた言語。2007年調査によると、日本在住アイヌ系人は1.5万人。うちアイヌ語を話せる人は10人。ユネスコの絶滅危惧言語に指定されています。ロシア領では死語となっています。文字を持たない文化ですが、口承叙事詩「ユーカラ」他があります。

アイヌ語に由来する地名は本土にも多数存在し、とりわけ、東北三県、青森、岩手、秋田に多い。昔、アイヌの勢力圏であった名残でしょう。
アイヌ語では、「川」を意味する「内-ナイ(nay)」「別-ベツ(pet)」がつく地名が多い。
現存する三県のアイヌ語出自の地名は以下の通り。

青森  相寄(あいより)   相内(あいない)   (あか)保内(ぼない)  (あら)熊内(くまない)  今別(いまべつ)  

岩手       佐羽内(さばない)  竜飛(たっぴ)    (ちょう)舌内(したない)  (はら)(べつ)     相去(あいさり)

女遊部(おなっぺ)  女遊(おなっ)() 遠野(とぬぷ)  沼宮内(ぬまくない)  馬淵(まべち)    和井内(わいない)   安比(あっぴ)   夏油(げとう)   

秋田     浅見内(あさみない)  阿仁合(あにあい)   ()猿部(ざるべ)  笑内(おかしない)  生保内(おぼない) 比内(ひない)  

          毛馬内(けまない)  辰子(たっこ)(がた)(tapkop) 達子(たっこ)(もり) (tapkop)  西馬(にしも)部内(ない) 

しかし、該当市町村のいずれも、アイヌ由来の地名と名乗っているところはない。かっての大和朝廷による蝦夷征伐等の負のイメージに連なるものとして、暗黙のうちに避けているのかもしれません。

1-3-2. 琉球語

琉球語は通称であり、独立言語として見た場合、日本語と系統が同じ唯一の言語と見なされ、日本語族あるいは日琉語族と呼ばれます。一方、日本語の一方言とする立場からは、「琉球方言」「南島方言」と呼ばれ、日本語は琉球方言と本土方言の二つに大きく分類できるとされます。
 日本語から1450-1700年ぐらい前に分岐し独自の発展を遂げたとされます。おそらくこの頃、多くの人々が本土から一斉に移住し、本土と隔絶された環境の中で、独自の文化と言葉を生み出していったのです。しかし、琉球語はまるで外国語のように映りますが、日本語と同じルーツを持つ日琉語族です。

琉球諸島(琉球国/現沖縄県+鹿児島県・奄美諸島)にはそれぞれの方言がありますが、総じて使われる母音は「あ、い、う」の3音です。本土の「え(e)」は必ず「い(i)」となり、「お(o)」は必ず「う(u)」となります。従って「アイウエオ」は「アイウイウ」となります。更に、琉球語にはもうひとつの大きな特徴があります。それは本土の「ハ(H)行」が、琉球の多くの地域で「P音」「F音」となるという点です。「花」は「ぱな」と発音されます。「パピプぺポ」は「パピプピプ」もしくは「パピフピプ」となります。古の日本語の発音の痕跡が琉球諸島に陸封され、現代まで永く生き延びてきた生きた証拠です。これらのことについては別途、後述します。

明治以降、とりわけ戦後は「言語の本土化」が重視され、学校では、琉球方言を喋ると、「方言札」を首にかけ廊下に立たされるという懲罰が戦後に至るまで存在しました。そんなこともあり、アイヌ語ほどではありませんが、琉球語を話せる人はかなり減少しています。

余談ですが、沖縄では、旧士族中心に3-4代遡れば、日本名と中国名を持っているのが普通でした。向かい合う相手の如何によって名前を使い分けるという、中国と日本という大国の狭間にあって、弱小国「琉球」が生き抜くための老獪な知恵の一つだったと思われます。

「清明節」も現在の年中行事として定着しています。清明節とは中国発祥の24節気のひとつです。「春分、夏至、秋分、冬至」の類で、春分の次、4月上旬の節気を「清明」といいます。本土では、盆や春秋の彼岸に先祖供養の墓参をしますが、琉球ではこの「清明節」がそれに該当します。中国でも古来から現在に至り同様の行事が行われます。本土の墓参とは異なり、先祖の霊を供養するだけでなく、親族縁者が供物(馳走)を食べ、踊り、楽しむという行事です。明らかに中国の風習を取り入れたものです。

 東風(こち)吹かば (にほ)ひおこせよ 梅の花 (あるじ)なしとて 春を忘るな

 菅原道真が配所の大宰府で都を偲んで詠んだ歌です。

  東風は「こち」、西風は「ならい」、北風は「あなじ」、南風は「はえ」。いずれも優雅な都ことばです。これらの言葉が遠く琉球まで伝播し、現在も地名として残っています。

沖縄本島南部にある東風平町(こちんだちょう)がその一つです。いま一つは、隣接する南風原町(はえばるちょう)です。琉球では地名を姓にすることが多いので、「東風平」「南風原」姓の人がいるかもしれません。上古のハ行が「パピプピプ」もしくは「パピフピプ」の三音化して琉球に残っているように、言葉そのものもいわば陸封されて残っているのです。「古事記」や「万葉集」に現れ、今は失われてしまった本土の古語が、現在の琉球列島で脈々と生きています。琉球方言の語彙で、本土の古い言葉(日本祖語)にルーツをたどれないものはない、とまで言われています。

2.日本語音声の謎(P31~52)

2-1. 日本語の母音はなぜアイウエオの五つなのか。

日本語は音節の構造が簡単なので、母音も多すぎず少なすぎない五つに落ち着いたものといえるでしょう。この単純さは日本語の大きな特徴です。
かっての母音数については、4母音説、6母音説、8母音説等々、諸説あります。
奈良時代、『古事記』『日本書紀』などの本文は主に漢文つまり古典中国語で書かれていましたが、歌などは音声が必要で、漢字を使って日本語の音を写しました。万葉仮名といいます。橋本進吉(学校文法創始者)は、「上代特殊仮名遣い」を研究し、「イ、エ、オ」にそれぞれ二種類の発音があり、計8種類の母音があったと唱えました。
 著者によると、8母音説は「上代特殊仮名遣い」を重要視しすぎたものであり、実際にはそれほどの区別はなかっただろうとしています。他説は省略。

2-2. 濁音、半濁音について。

五十音図を眺めましょう。アイウエオの順番はサンスクリットの研究からきているそうです。「カサタナハマヤラワ」を実際に発音してみると、その配列は音の作り方が口の奥から徐々に前に向かうようになっています。しかし、ハ行だけは違います。ハヒフヘホは奥の方で出す音ですからどちらかというとカ行に発音の位置が似ています。

日本語にはもともとハヒフヘホはなく、奈良時代まではパピプペポと発音していましたが、平安時代には、ファ、フィ、フ、フェ、フォと変化していきました。パピプペポもファ、フィフフェフォも唇を使う音ですから、歯茎で出すタ行の音よりうしろにあっていいのです。ハ行にだけパピプペポがあるのは、元々、ハ行が「パピプペポ」だったことの名残だと考えられます。

ちなみに、ハ行はその後も変遷し続けました。語中のハ行はいつのまのかワ行に変わってしまって、歴史的仮名遣いでは「川」は「かは」と書くのに「かわ」と発音されるようになり、「上」は「うへ」と書くのに「うえ」と発音されるように変化します。これをハ行転呼と呼びます。

時代により変遷する仮名遣いに対し、明治時代になって、時代を超えて一元的に対応する規則が定められました。歴史的仮名遣いと言います。1946年制定のものは現代仮名遣いと言います。

日本語の仮名には濁音がつけられるものとつけられないものがあります。カ行、サ行、タ行、ハ行はそれぞれガ、ザ、ダ、バというように濁点を付けられますが、ア行、ナ行、マ行、ヤ行、ラ行、ワ行には濁点を付けることができません。何故でしょう。

言語には有声音と無声音というのがあります。有声音とは、声帯を震わせて出す音のこと。無声音は声帯を震わせません。k,s,t,pなどの子音は無声音ですが、これを有声にして発音すると g,z,d,b になります。これが濁音です。他の n,m,r 等は最初から有声音で、日本語では対立する無声音がありません。対立する音がないので、わざわざ濁音の記号をつけるまでもないということになります。このため、ナ行、マ行、ラ行などには濁点がつきません。ちなみに母音はすべて有声音なので、アイウエオもこれ以上濁音を付けて発音することはできません。

2-2-1. 漢字には名前などで濁る場合と濁らない場合があるのはなぜか

「高田」と書いて「タカダ」「タカタ」と二通りの読み方があります。「桑田」と書いて「クワタ」「クワダ」となるのも同様です。

「星空」は「ホシ+ソラ」なのて「ホシソラ」と読みそうなものなのに、なぜか「ホシゾラ」と濁らせて発音します。このように単語と単語がくっついて一つの単語になるとき、後ろ側の語頭が濁音に変わる現象を「連濁」と言います。「和語」+「和語」の場合は連濁します。「ヤマ+トリ」なら「ヤマドリ」、「カワ+サカナ」なら「カワザカナ」になります。漢語の場合には連濁しないので「カイチョウ」は「カイジョウ」にはなりません。しかし、漢語も元々外来語であったことが忘れられるほど定着すると、連濁することがあります。「文庫+本」は「ブンコボン」になります。

和語の組み合わせであっても、並列構造の場合には連濁しません。「山川」は「ヤマとカワ」、「草木」は「クサとキ」の意味なので連濁しません。

さらに連濁に関しては、「ライマンの法則」という例外ルールがあります。

例えば(はる)と風(かぜ)が合体すると、連濁するとハルガゼになるはずですが、なりません。これは、近くに「ゼ」という濁音があるため、連続で濁音にしないほうがいいという意識が働くためのようです。「高田」は連濁するのが普通ですが、「永田」「長嶋」はしない方が普通です。直前に「ガ」という濁音があるからです。

²  「ライマンの法則」: 明治時代に日本に来たベンジャミン・スミス・ライマンによって発見された法則。「すでに濁音を含む語では連濁が起こらない」

2-3. 五・七・五のリズムについて

漢詩の例から始めましょう。

  国破山河在    国破れて山河在り

  城春草木深    城春にして草木深し

  感時花涙    時に感じては花に涙を(そそ)

  恨別鳥驚心    別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

  烽火連三月    烽火三月(さんげつ)に連なり

  家書抵萬金    家書(ばん)(きん)(あた)

  白頭掻更短    白頭掻けば更に短く

  渾欲不勝簪    ()べて(しん)()えざらんと欲す

                杜甫「春望」

五言律詩という形式ですが、律詩では二句目、四句目、六句目、八句目の最後で韻を踏むというルールがあります。このように、句末の母音をあわせて韻を踏むことを「脚韻」といいます。

 英語にも脚韻ならびに頭韻があります。ラテン語の例になりますが、カエサルの有名なセリフ「来た、見た、勝った」は veni(ウェーニー)vidi(ウィーディー) vici(ウィーキー)と言います。子音をあわせた「頭韻」の一例です。また、中国語でも「双声」という頭韻があります。躊躇 chuucho、彷彿 houhutuなどは同じ子音を連続させることによりリズムをよくした「双声」の一例です。

 日本語では、頭韻や脚韻は発展せず、音節の長さが一定(一つの子音+一つの母音)である特徴から、文字数を一定にそろえるという手段によってリズムを作り出す、という方法になりました。その結果として五文字と七文字が基本となりました。

日本語の語彙は、二音が基本です。一音節の単語である「手」「目」は、関西では「てえ」「めえ」と二音の長さで読むのが普通です。二音をふたつ加えた四音の単語も多く、ある統計によると四音の単語が全体の4割近くにもなるそうです。その基本的な四音単語に助詞を付けることになるので、五音という単位はもっとも作りやすい数といえるでしょう。七音は「三+四」か「四+三」にわけることができ、やはり四音が中心としてあることがわかります。 以上のとおり、日本語は、五文字、七文字でリズムをよくしようとしたのでしょう。

 五、七、五の次に必ず一拍を入れます。それをカウントすると、「六・八・六」のリズムになります。カルタ大会や宮中歌会始における歌の朗詠は、「五」の部分を長く伸ばし、文節間の一拍をいれれば「八、八、八、八、八」のリズムになります。「五、七、五」のリズムは「六、八、六」「八、八、八」が基本とも言えそうです。

2-4. 五十音図について  

五十音図の成立がサンスクリットに由来すると前述しましたが、その周辺に触れます。

 五十音図が現在の配列になったのは室町時代以降です。それまではいろいろな配列がありました。当時のサンスクリットは仏教経典の原著語として僧侶の研究対象であり、悉曇(しったん)学と称されました。サンスクリットのアルファベットの順番と「アイウエオ」「アカサタナハマヤラワ」の順番が完全に一致しています。サンスクリットのアルファベットの音数は五十音よりはるかに多いのですが、順番の定性は不変です。その理由としては、五十音図は悉曇の字母を忠実に反映したものであると言われます。

 もう一つ成立に影響を与えたものとして、漢字音韻学としての「反切(はんせつ)」があると言われますが、難解過ぎるので割愛します。 

 日本においては1946年に現代仮名遣いが導入され、ヤ行のイ段・エ段、ワ行のイ・ウ・エ段は、同じ段に「イ」「ウ」「エ」を置くか、空白とすることになりました。それ以前はワ行のイ・エ段は、「ゐ」「ゑ」が書かれていました。

サンスクリット語は現在もインド公用語22語のひとつとして使われています

日本でも、仏教経典とともに伝来して日本語として使われているものがあります。「卒塔婆(stupa)」、「旦那(dana)」、「檀家」。サンスクリットの「与える」に由来し、英語ではdonationとなり、フランス語ではdonnerとなります。それだけ祖語に近いのでしょう。

3. 日本語語彙の謎(P53~82)

3-1.「お」と「ご」の使い分けについて

「お」という接頭語は基本的に和語につき、「ご」という接頭語は基本的に漢語につくという規則があります。もちろん例外もあります。「お茶」「お食事」etc.

 ただ、漢語由来の言葉であっても、日本人の意識の中で和語と混同する場合があります。「重箱読み」「湯桶読み」がその例です。

「重箱」は、「重」/漢語+「箱」/和語という組み合わせでできた言葉。「湯桶」は逆に和語+漢語の組み合わせによってできた言葉です。

「豚肉」も「豚」は和語、「肉」の「ニク」は漢語の音読み。和語では「シシ」と言います。「絵()」も漢語ですが、「ニク」同様、和語としか感じられないでしょう。いずれも呉音と呼ばれる読み方です。「絵()」の漢音は「カイ」、「肉」の漢音は「ジク」、呉音は「ニク」、現代中国語では、羊肉(ヤンロウ)の「ロウ」。なお、宍は肉の異体字で意味は同じ。

 名詞を動詞化するためには、古文では「名詞+す」、現在では「名詞+する」。このような単語のうち、語尾がn(仮名では「ん」)ng(仮名では「う」「い」)で終わるものは、「す」が濁音化して「ず」になったので、「論ず」「信ず」「命ず」になりました。これが現代語では「じる」に変化して、「論じる」「信じる」「命じる」になっています。

 漢語の和語化という現象は、外来語であるという意識が希薄になるということであり、そこからくる「お」と「ご」の混同は避けられないものなのでしょう。

3-2. 「日本」はなぜ読み方を統一しないのか。

 「日本」には「ニッポン」と「ニホン」と二つ読み方があります。最近は「ニホン」がやや優勢。「日本」という国号がいつから使われるようになったのか諸説ありますが、おそらく7世紀頃から。ただ、「日本」は漢語であり、和語ではありません。つまり、外国語で国号をつけているということです。当時の唐や朝鮮半島の国に向けた対外的な名称です。それまでは中国を始めとして、日本の国号は「()」と呼ばれていました。「倭」は、「我」という意味と「背の低い人」という意味があります。同音の和語「和」を用い、それに「大」をつけて「やまと」と読ませました。「やまと」はあくまでも天皇家ゆかりのものであって、国号ではありません。中国嫌いの国粋排外主義たちがなぜ問題にしないのでしようか。ベトナムの国名も中国からみた国号「南越」由来のものです。ベトナム語では倒置されViet()Nam()すなわち越南となります。

 
漢字音の原則から言うと、「ニッポン」と読むのが本来的。「一般」「出版」のように、前の音が「ち」「つ」で終わる場合、漢語のハ行音はパ行で発音されるからです。また、奈良時代は「パピプペポ」時代でした。

 英語のJapanは、中国の南方の方言音に由来していると言われます。「日」には「ジツ」という音読みがあることからわかる通り、「日本」は中国南方では「ジッパン」というような音で発音されていたと考えられます。それがマルコ・ポーロの「東方見聞録」ではジパングとされ、西洋に広まりました。

 では、なぜ「ニッポン」「ニホン」と異なる読み方が生まれ、統一されずに来たのか。恐らく日本を含む東南アジア圏には漢字本位主義な傾向があるからです。漢字でどう書くかが問題であって、どう読むかは副次的な問題なのです。

当今、日本で流行っている子供の命名に見られる、いわゆる「キラキラネーム」と同様の印象を持ちます

3-3. 数字に関するあれこれ。

 みなさんは、数をどう数えますか。多くの人は「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ、キュウ、ジュウ」と言うでしょう。ところが、後ろに「個」をつけると、「四個」は「シコ」ではなく「ヨンコ」、「七個」は「シチコ」ではなく「ナナコ」と読みます。和語では、数字は「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、とお」と数えます。つまり、この疑問をより詳しく言うと、漢語系の言葉で数を数えていても、なぜ四と七だけ和語系の言葉で数えることが多いのか、となります。

 これはおそらく音韻的な理由によると思われます。「一、四、七」を漢語で読むと、「イチ、シ、シチ」になりますが、音が似ているため、聞き分けが難しくなるので。「シ、シチ」を和語系に変えているのだと思われます。

最近の京都の地下鉄の駅名「七條烏丸」が「シチジョウ・・」から「ナナジョウ・・」に変更されました。従来の「四条烏丸(シジョウ・・)」と「七條烏丸(シチジョウ・・)」が混同されるおそれがあるというのがその理由です。

 日にちについても、十一日、十二日、十三日まではそれぞれジュウイチニチ、ジュウニニチ、ジュウサンニチと「日」の部分も含めて漢語系の言葉を使いますが、十四日は「ジュウヨッカ」と、四を和語にするのに合わせて「日」を「か」と和語で読んでいます。なお、「ついたち」は「月立(つきたち)」が変化した形です。昔は太陰暦を使っていたので、最初の日を「月立」としたのでした。「二十日」は「はつか」と言い、hat-の部分が二十を表す和語。Ex.二十歳「はたち」。その他、「三十路」の「みそ」、百を表す「もも」、千を表す「ち」などが和語数詞の名残ですが、それ以外は漢語にとって代わられました。

 アジアの言語の数詞は漢語に置き換えられたところが多く、タイ語では一しか固有の数詞が残っていないということです。朝鮮語では九十九まで固有の数詞があり、漢語由来の数詞と併用しますが、数えるものによってどちらを使うかが決まっており、外国人にとっては面倒です。

 なお、英語では十三を表すthirteenから十九まで規則的にteenが付きますが、十一と十二は違う形をしています。十三から形が変わるのは、十二を一つの単位としているからだと考えられます。英語にはダースという単位がありますが、これも十二が一つの単位となっています。時計は60分が一つの単位。

601210の最小公倍数。フランスの数詞は、構成要素からみると60までしかありません。70は「60+10」、80は「4×20」、96は「4×20+16」。

 十二が一つの単位になるのは、1年間が12ケ月だから、というのがもっとも合理的な解釈で、かっては月を基準に時間を計っていました。英語のmeasure(計測する)moonと語源的につながりがあります。このあたりは阪上先生にご高説を伺いましょう。

英語の月は、Januaryに始まりDecemberで終わります。ところが、September(9)Sept-7October(10)oct-8Novenber(11)nove-9December(12)dece-10を表す言葉です。それぞれ2ヶ月ずつずれています。これは、ローマ皇帝のカエサルとアウグストォスが7月と8月にそれぞれ自分の名前を入れ込ませたからだという説があります。しかし、真相は次の通りです。

 ローマの最も古い暦であるロムルス暦(AC7531)では、春分のある3月を年の初めとしました。従って、September(9)Sept-7番目、October(10)8番目、Novenber(11)9番目、December(12)10番目と数字通りの順番でした。1年間は304日でした。

 途中の改暦を経て、カエサルがユリウス暦を導入(AC46)

当時「五番目の月」といわれていた七月を、カエサルは自分の名前のユリウスに変えてしまいました。カエサルの養子アウグストォスも、「六番目の月」を自分の名前に変えました。これがJuly, Augastの起源です。アウグストォスは自分の名前を付けた8月を31日に格上げし、9月を30日に減らしました。人間臭いエピソードです。

3-4.  干支ならびに朝鮮通信使 

数のはなしになったので、暦にふれます。中国やその影響を受けた日本、韓国、ベトナムでは、十干十二支すなわち干支、それを組み合わせた60年周期の暦年表があります。

「壬申の乱」(672/天武天皇元年)、「戊申戦争」(1868-9/慶應4/明治元年-2)、「辛亥革命」(1911/宣統3)のようにその当時の正規年号を排して使われることがあります。また、「丙午(ひのえうま)」も人口に膾炙しています。

 余談になります。「文禄・慶長の役/1592-31596-8」のことを朝鮮側では「壬辰倭乱/宣祖25-629/年」と言います。和睦交渉の際、李氏朝鮮は日本側による倭乱の謝罪を交渉の前提条件とします。面子重視の国民性は従軍慰安婦問題とも通底しています。交渉にあたった対馬藩は、国書(日本国王書)を二度偽造して交渉を進め、李氏朝鮮は1604(慶長9/宣祖37)二名の使節派遣、1607(慶長12/宣祖40)より朝鮮通信使を再開します。

 通信使はおよそ470-500人規模、警護の対馬藩士1500人、全行程8-10ヶ月の壮大なものでした。費用は幕府持ち、多いときは100万両。新井白石の意見で60万両に減額され、対馬藩藩儒雨森芳州と対立、日朝国交摩擦の原因となりました。白石は、外交使節ではなく朝貢使節と見做していたのです。対馬藩宗氏が一切を仕切り、同時に対朝鮮貿易を独占して多大の利益を上げました。通信使はその後11回続きますが、12回目、1811(文化8/純祖11)対馬差し止めをもって終了します。

因みに、国書(日本国王書)偽造の顛末はというと、対馬藩主宗義成は忠告のみでお咎めなし、幕府に密告した家老柳川調(しげ)(おき)津軽流罪、作成した禅僧()(はく)玄方(げんぽう)盛岡藩配流という結末でした。世に柳川一件といわれます。国交回復は、大局的に見て対明牽制に寄与すると判断されたからでしょう。なお、3回目までは、李氏朝鮮側は回答兼刷還使と呼称し、捕虜奪還交渉も大きな目的でした。通信使の本来の目的は、将軍襲封祝賀です。交渉結果として、帰国者は3次帰国で6000-7000人であり、その数倍が日本残留となっています。拉致は北朝鮮の専売特許ではなく、過去の日本も同様のことを行っています。 

4.  言語変化の謎(P83~102) 

4-1. 「ら抜き言葉」「さ入れ言葉」

☆ 実は言語学者はおおむね、ら抜き言葉を必然的な変化として捉えています。

ら抜き言葉に関係しているのが、「れる、られる」という助動詞です。「れる、られる」には、「受身、可能、尊敬、自発」の四つの意味がありました。

ところが、現代語では、「れる」可能の意味では、「書くことができる」という場合、「書かれる」ではなくて、「書ける」というかたちを使います。可能を表す「書ける」が誕生した結果、「書かれる」は「可能」の意味ではほとんど使わなくなったのです。

 ところが、「食べる」「見る」のような下一段活用動詞と上一段活用動詞の場合には、可能を表すためには、「食べられる」「見られる」としなければなりません。そんな中で、可能の表現だけを独立させて「食べれる」「見れる」としているのが「ら抜き言葉」です。音韻的にはら抜きが自然なので、教育などで「ら抜きは間違い」と教えるのをやめれば、それが標準になっていくでしょう。

☆ 「ら抜き言葉」に近いものに、「さ入れ言葉」があります。

 これは主に使役を表す「せる・させる」に起こる「誤用」です。「れる、られる」同様、「せる・させる」の二つの形があります。下一段活用動詞、上一段活用動詞の「食べる」「煮る」につくと「食べさせる」「煮させる」と「させる」がつきますが、五段活用動詞につくと「言わせる」のように「せる」がつきます。そこで五段活用動詞の方に「さ」を入れるということが起こっています。下一段活用動詞、上一段活用動詞と五段活用動詞ともに「させる」がつくことになるので形がそろいます。無意識にやってしまう誤用です。「言わせていただきます」というところを「言わさせていただきます」のように、本来不用の「さ」が入る現象です。

4-2. 「全然大丈夫」

4-2-1 「全然」という表現も、「乱れた日本語」の代表としてしばしば取り上げられます。

通常、「全然」は「~ない」と否定と結びつくとされてきましたが、最近は肯定文でも用いられるという「誤用」が広がっていると言われます。

「全然~ ない」「少しも~ ない」「決して~ない」「たぶん~だろう」のように、副詞など一定の文末表現に結びつくことを「呼応表現」と呼びます。話し言葉の場合、伝達する内容も大切ですが、それ以上に大切なのは話し手の気持ち、態度です。そして「呼応表現」は、基本的にこのような話し手の心的態度にかかわることを表します。二度出てくることによって、伝達される内容に対する話し手の意図が明確になるのだと考えられます。最初の方に呼応表現が出てくれば、聞き手の方も「否定」や「協調」を意識してその後の言葉を聞くことが可能になるのです。

  最近の研究では、戦前にも「全然」は肯定形で使われてたことが明らかになりました。「全然~ ない」でなければ間違いとされたのは、戦後になってからです。

  現在「全然+肯定形」が使われている文脈をみると、じつは大半が「否定の気持ち」で使われていることがわかります。例えば「全然おいしいよ」という表現は、料理を作ってくれた人が「まずくない?」と聞いてきて、「まずい」を否定するときや、いかにもまずそうな料理を口に運んでみたら、まずくなかったときなどに使われます。

形の上では「全然+肯定形」でも、話者の気持ちは依然として否定なのです。文法を見る時に、文字だけ見て分析すると、本質を取り逃がすことがあります。

5.  書き言葉と話し言葉の謎(P103~134)

5-1. 平仮名、片仮名の誕生

 「仮名」に対応するのは「真名」です。「真名」とは漢字のことです。奈良時代になると日本語を日本語のまま記録しようとする動きが出てきます。これが万葉仮名です。

 その後に、天と地のけじめのつかぬ、形らしい形もないこの地上は、水に脂を浮かべ たように漂うばかりで、あたかも海月が水中を流れ流れてゆくように・・・。

「古事記冒頭読み下し文」。

   次、国稚如浮脂而久羅下那州多陀用弊流之時(流字以上十字以音)。  「古事記原文」。

「あたかも海月が水中を流れ流れてゆくように」となっている部分は原文では「久羅下那州多陀用弊流」と表記され、その後ろに(流字以上十字以音)と書かれています。カッコは著者がつけたもので、本来は小さな文字で書かれていました。これは本文に対する注釈で、「流という字までは音で読め」という意味です。「久羅下那州多陀用弊流」は当て字で「クラゲナスタダヨエル」と読めます。このように漢字を用いて和語を表す方法が万葉仮名です。後に簡便化のため万葉仮名の一部を省略し、字形を単純にしたのが「片仮名」です。つまり、「片仮名」は漢文を読むための補助機能として開発されたものだったのです。

 一方の「平仮名」というのは、和文を表記するために漢字を崩して生まれた字です。「平仮名」は縦書きでつなげて書くのが普通でした。つまり、曲線が多く、つなげて書きやすい字形になっています。なお、平仮名は空海が、片仮名は吉備真備が作ったという伝説があり、結構、信じられていたようです。

5-1-1. 仮名にまつわることを調べてみました。

上記でみたような片仮名の誕生は、漢字の日本語化という大きな流れの第一歩です。
万葉仮名の用法に甲乙二類の使い分けがあることは、奈良時代当時、現代に無い発音が存在している
とを示しています。つまり、音韻変化の証拠です。
仮名」になり、平安時代に簡略化されて「片仮名」や「平仮名」になったということです。古代朝鮮でも漢字が表す意味を棚上げして発音だけを借りて別の語を書き表す方法は「仮借(かしゃ)」と呼ばれ、その「仮借(かしゃ) 漢」が我が国で定着して「万葉、漢字を朝鮮語風に読む必要から、「誓記体(せいきたい)」と呼ばれる変体漢文が編み出されました。「之」の字は文章の終わる読点「、」、「也」は文章が変わる段落句点「。」を示すために用いられました。
単に「かな」といえば平仮名のことを指しました。「ひらがな」の呼称が現れたのは中世末のことです
単に「かな」といえば平仮名のことを指しました。「ひらがな」の呼称が現れたのは中世末のことですが、これは「平易な文字」という意味です。また「かた」とは不完全なことを意味し、漢字に対して省略した字形ということです。

5-2. 仮名を習得するための和歌

『古今和歌集』の仮名序には、次のような記述があります。

 「・・・なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。あさかやまのことばは、うねめのたはぶれよりよみて、このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、てならふ人のはじめにもしける」

「なにはづのうた」というのは仁徳天皇に渡来人王仁が、なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

という歌を奉ったという故事によります。また「あさかやまのことば」というのは、葛城王すなわち橘諸兄が東国視察の際、当地の采女が、

  あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもわなくに

という歌を作り諸兄に献上したという話です。「てならふ」とは毛筆で文字を書く練習を意味し、上記和歌二首が当時、仮名(平仮名)手習いの最初の手本とされていたということです。

 当時の子供に必要とされたものは、仮名文字の習得に加え、続け字(連綿)の習得でした。連綿とは仮名の続け字のことをいい、その切れ目が文節の切れ目を表しました。現在の句読点にあたります。自分の書いたものを他人に読んで理解してもらうためには、ルールに基づいた文章作法があったということです。

 『源氏物語』の「若紫」の巻に、光源氏がまだ幼女の紫の上を引き取りたいと、祖母である尼君に申し入れるが、「まだ難波津をだにはかばかしうつづけ(はべ)らざめれば、かひなくなむ」と断られるくだがあります。

手習い手本にはもう一つ「いろは歌」があります。11世紀頃から手本として取り入れられ、江戸時代には隆盛を極めました。

5-3.いろは歌

「いろは歌」は、すべての仮名を重複させずに使って作られた七五調の今様形式。

現代に伝わるいろは歌の内容は以下の通り。

いろはにほへと  ちりぬるを   色はにほへど  散りぬるを

わかよたれそ   つねならむ   我が世たれぞ  常ならむ

うゐのおくやま  けふこえて   有為の奥山   今日越えて

あさきゆめみし  ゑひもせす    浅き夢見し   酔ひもせず (中学教科書)

 古くから「いろは四十七文字」として知られますが、最後に「京」の字を加えて四十八文字としたものが多く、現代では「ん」を加えることもあります。いろはかるたの最後は「京の夢大阪の夢」で終わります。
いろは歌の意味は、多くは「匂い立つような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢を見たり、酔いにふけったりすまい」と仏教的な無常を謳った歌として解釈されてきましたが、諸説あって定説はありません。

 例えば、了尊「悉曇論略図抄」では「いろは」は「色葉」であり、春の桜と秋の紅葉を指し、「あさきゆめみし」の「し」は「じ」と読み、「夢見じ」という打消しの意となります。作者は空海とする説があるが、史実である可能性はほとんどありません。

『いろは歌』の著者、小松英雄は、なぜ空海が創作者とされたかについて、

1.   書の三筆のひとりである。

2.   用字上の制約のもとに、これほどすぐれた仏教的な内容をよみこめるのは空海のような天才にちがいない。

3.   さらに、いろは歌はもともと真言宗系統の学僧のあいだで学問的用途につかわれており、それが世間に流布したが、真言宗においてまず有名な僧侶といえば空海であることから。

といった理由をあげ、いろは歌の作者は真言宗系の学僧であると推定しています。

 明治時代以前の平仮名は、ひとつの仮名に複数の異字体(変体仮名)を有するものであったが、いろは歌が手習いに用いられるときの字体は、そのばらつきがほとんどないことが知られています。その字体は現代の平仮名と一致するものであって、「え」「お」「そ」のみ異なっています。このことから山田孝雄は、現代の平仮名の成立にこのいろは歌の字体が影響したことを指摘しています。

なお、仮名遣いには大きく分けて、歴史的仮名遣いと現代仮名遣いがあります。後者は1946年制定されましたが、制定時、多くの反対論がありました。現代仮名遣いの特徴は発音と読みの一致が基本、一部例外。古典や歴史に連なる歴史的仮名遣いを軽視しているとの反対論が多いのですが、個別規定や評価は相当煩瑣なので立ち入りません。

5-4.  現代仮名遣いの一例

 「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」について見ましょう。「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」は元々別の音を表していましたが、江戸時代くらいまでには両者を区別しなくなってしまいました。そこで現代仮名遣いでは、原則として一つに統一する方針になり、基本的に「じ」と「ず」のみを使うことになりました。

 「鼻血」は「鼻(はな)」に「血()」が付いた言葉だから「はなじ」ではなく「はなぢ」、「道連れ(みちづれ)」は「道(みち)」に「連れ(つれ)」が付いた言葉だから「みちずれ」ではなく「みちづれ」と書きます。このように和語+和語で連濁化する際には「ぢ」「づ」を残しました。また、「ちぢむ」「つづく」のように、前の音と同じ音を続ける際に後者が濁音になる言葉も「ぢ」と「づ」が残されることになりました。

 「地震」は和語ではなく漢語で、「地」を「じ()」と読むのは呉音、「ち」と読むのは漢音です。語源的には「地」は「ぢ」になるはずですが、和語+和語の連濁化現象ではないため、「じしん」と表記します。余談ですが、和語の語頭に濁音は来ません。

前稿の「全国アホ・バカ分布考」で紹介された小松英雄「日本語の音韻」では、「がなる」「ぎすぎす」「げろ」「ごねる」「べらぼう」「ざまを見ろ」など、語頭に濁音を持つ言葉を示して、「和語においては、濁音に始まることが汚さの条件になっているのではないか」という考察があります。小松英雄は本報告の「いろは歌」の考証でも登場します。イタリック体の部分は、著者、橋本陽介の勇み足では・・・。

6. 「は」と「が」、そして主語の謎(P135~172)

6-1. 学校の文法は、誰が作ったのか ?

 日本語の文法研究が本格的に始まったのは江戸時代です。特に本居宣長とその門下による研究が有名です。

 1900年以降、山田孝雄(よしお)、松下大三郎が主に意味の面から日本語研究を進めました。続いて、それらを引き継ぐ形で、大きな影響力を持ったのが、橋本進吉です。橋本は形式からの分析を行いました。橋本文法を引き継ぐ形で文法を考えたのが時枝誠記です。時枝は「近代言語学の父」と言われるソシュールの言語観を「言語構成説」と批判し、「言語過程説」を提示しました。「言語過程説」とは、簡単に言えば言語が話し手と聞き手間で実際に使われる過程を重視する考え方です。後述の「私は208号室だ」も参照してください。

 以上四人の文法を「四大文法」と呼びます。

 学校文法は、主に橋本文法を基にして作られたものです。「橋本文法は形式的だ」との批判がありますが、先行する山田文法・松下文法が主に意味の側面を研究していたので、分析の足りない形式の方に着目したのが橋本文法であり、意味を無視していた訳ではありません。

なお、時枝誠記は京城帝大教授時代(後に東大教授)、植民地朝鮮の日本語普及に関与し、皇民化政策の時期には「韓国併合という歴史的な一大事実」の完成を名目として、朝鮮人に対し朝鮮語の完全なる廃棄と日本語の母語化を求め、さらにその具体的な方策として朝鮮人女性に日本語教育を重点的に行うことを訴えています。負の側面です。

9.  同じ意味でも違う構文があるのはなぜか(P229~242)

 9-1. 「私は208号室だ」という言い方は、文法的に間違っているのではないか

 この文が文法的に適格かどうか。現在の言語学の主流の考え方では、「母語話者の直観」で判断します。つまり「私は208号室だ」という文を、日本語話者がみんな適格だと思うなら正しい、間違っていると思うなら間違いになります。ソシュールの言語観を「言語構成説」と批判し、「言語過程説」を提示した時枝誠記のように、言語は西洋の論理学的分析とは異なる論理を持っているとするのが大方の考えです。 

10.  人間の認識能力と文化の謎(P243~252)

10-1. 「赤い」「青い」とは言うが、「緑い」と言わないのはなぜか

 本来的に日本語で色を表す言葉は「赤い」「青い」「黒い」「白い」の四つだけです。「緑」は色名ではありません。本来は新芽を表す言葉だったようですが、そこから転じて色も表すようになっただけです。

もともと有彩色としては「赤い」「青い」だけでしたが、「赤い」から「黄色」「茶色」が分岐し、遅れて「紫色」が分岐しました。「黄色」「茶色」には「い」が付き、「黄色い」「茶色い」となりましたが、遅れて流布した「紫色」や「緑色」には「い」が付きません。「緑色」に至っては、色名として流布しだしたのは1800年頃以降です。

 色彩語については、バーリンとケイの有名な研究があります。この二人の研究によれば、色の名前を二つしか持たない言語では、必ず白と黒の組み合わせしかないといいます。そして、三個の色名を持つ言語では、白と黒に赤が加わります。四個の色名を持つ言語ではこれに緑か黄色のどちらかが加わるというのです。人間の認知能力はそれほど大きな差がないので、文化を超えた普遍性が見いだされるといいます。バーリンとケイは日本語には当てはまらないという点に言及しています。

結びにかえて----日本語の立場からの言語理論の必要性

 多くの学問がそうであるように、言語学をリードしてきているのはずっと欧米を中心とした理論です。本書の中で言及した十九世紀の比較言語学や、音韻論、意味論、さらには二十世紀の生成文法理論や認知言語学などはすべて欧米が発信したものであり、日本の研究はそこで作られた枠組みを前提として行われているだけです。学校の文法に出てくる「主語」や「述語」という概念も、欧米の言語学発信のものですし、「格」という概念もラテン語文法から来たものです。

 欧米的な学問に根強くみられるのが、欧米の論理学=絶対的真理と見なす立場です。日本語や中国語を観察する限り、少なくとも西洋の言語学の通りではないのではないかと考えています。

 これまでの言語学研究によって、言語の普遍性は確かに明らかになってきていますが、一方でそれは欧米の知的枠組みを普遍化させているものでもあります。簡単なことではありませんが、日本語やその他の言語をきちんと観察しつつ、日本語や中国語といった言語から新たな言語に関する理論を作れないかと日々考えているところです。

 

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