第8回勉強会
『日本語あれこれ』
テキスト
1.
松本修著
「全国アホ・バカ分布考---はるかなる言葉の旅路----」新潮文庫
2017年5月13日
京大楽友会館
報告者 : 松橋 二郎
------言語地理学の世界-----
本書記載による記述は赤字表示です。
(図表ー分布図はクリックすると大きくなります)
わたしの独自記述は青字表示です。
( 1 ) プロローグ
上記の本は偶然のきっかけから誕生した。当時の著者は42歳、大阪・朝日放送の人気番組「探偵ナイトスクープ」のディレクターであった。1990年1月19日の夕方六時、翌二十日の放送予定の番組の収録が始まった。岡部まり秘書は、視聴者からの葉書を、いつものようにたどたどしい口調で読み始めた。
「私は大阪生まれ、妻は東京出身です。二人で言い争うとき、私は『アホ』と言い、妻は『バカ』と言います。耳慣れない言葉で、お互い大変に傷つきます。ふと東京と大阪の間に、『アホ』と『バカ』の境界線があるのではないか ? と気づきました。地味な調査で申し訳ありませんが、東京からどこまでが『バカ』で、どこからが『アホ』なのか調べてください」
担当の北野探偵は東京から各地取材で右往左往。東京ではもちろん「バカ」、新幹線を途中下車した静岡県・富士駅では「バカ」。ところが名古屋駅前では「タワケ」が出現。翌日向かった岐阜市でも「タワケ」使用確認。関西に戻って滋賀県の米原町、ここでは「アホ」、岐阜県・大垣市に降りると「タワケ」。「アホ」「タワケ」の境界線は、どうやら滋賀と岐阜の県境、関ケ原あたりにあるらしいとわかった。行き着いた関ケ原のわずか三名からの聞き取り調査の結果を結論として、上岡局長に誇らしげに報告する。
『「アホ」と「バカ」の間には「タワケ」があり、「アホ」と「タワケ」の境界線は、岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原・西今須にありました』
これがほぼ正しかったことは、のちの全国調査で明らかになる。ほぼ正しかったというのは、幅五メートルほどの道一本へだてるだけで言葉が完全に変わる訳ではなく、「アホ」と「タワケ」は、実際はもっと広く相互に乗り入れ合っていたのである。
上岡「で、『バカ』と『タワケ』の境界は ? 」
北野「えっ ! (慌てる)」(場内爆笑) ・・・・・
上岡「これは今年一杯かかっても、全国の分布図を作ってもらわんことにはね」
上岡「ではひとつ、このあとは誠意を持って、『アホ』『バカ』『タワケ』、その他の言葉の区域を、日本地図にきちんと線が入るまで調べてもらいましょう」
番組のエンディング・ロールで、再び「アホ」と「バカ」が取り上げられた。長崎で育ち、博多で短大生活を送った岡部まり秘書に、上岡局長が問いかけたのである。
上岡「九州ではどういうんですか ? 」
岡部秘書は、さりげない風情で衝撃的な発言をした。
「『バカ』、って言う気がしますね」
「九州も『バカ』!? 」
「『アホ』と『バカ』の境界線が、西にもあるんですよ」
と感慨深く言って、上岡局長は番組をしめくくった。
本番を終えて控室に戻ってきた上岡さんが著者に向かって言う。
ダラ系語分布 |
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「『アホ』とか『バカ』などといつた言葉は、きっとまだ学者も調べていない」
これが、その後3年余続く全国アホ・バカ分布考の旅路、即ち、はるかなる言葉の旅路のスタートでした。
視聴者からの情報が多く寄せられ、それを分布図にプロットする作業が第三次まで続いた。分布図は情報を得るごとに改定され、次第に詳細なものになってゆくが、第一次分布図は簡素なものだった。
東日本では、東京から静岡にかけてが「バカ」。そして西日本でも、岡山から九州北部にかけてが「バカ」。愛知、岐阜のあたりは「タワケ」。関西は「アホ」、ただし播磨・姫路のあたりは「ダボ」。香川が「ホッコ」、富山は「ダラ」。
第二次分布図は、本番で北野探偵により公開された。
北海道・青森(ハンカクサイ) 宮城・福島(バカ) 茨城(ゴジャッぺ)
石川(ダラ) 福井(アヤ、ヌクテー) 兵庫(アハー) 徳島(ホレ)
岡山(アンゴウ) 島根(ダラズ・ダーズ) 佐賀(バカ・フーケ[モン])
鹿児島(バカ) 沖縄(フラフージ) 等々。
すぐさま上岡局長が議論の口火を切った。
「これ見てぼくはもう今、慄然としておるんです。凄いことですよ、これ。なんでや言うたらね、「ダラ」というのが、まさしく出雲王朝と越、古代の地図そのままなんです」
ことばが現在の「県」や江戸時代の「藩」によって区切られたのではなく、古代以来の「国」によってわけられているという指摘に著者は驚いた。
「こういう俗語というのは、古代を残している気がしますね」
「折口信夫、柳田國男を凌ぐような大作にするため、ご協力をお願いします」
タワケ分布 |
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と、局長は意気高らかにこのコーナーをしめくくった。
ここまでは本書冒頭部の要約である。TV制作の手法、進行に即した記述であり、この方法論は全編通じて貫かれるのである。書く時点で自明となっていることであっても、その結論に至るまでの過程、試行錯誤等が同時進行的に記述され、いわば物語制作の現場目撃者のような気分になる。これはこれでなかなか面白いが、全編、要約が必要なので、冒頭の部分のみの紹介に留める。
その後、アンケート調査票は全国各地の教育委員会に送られ、未回答のところには電話ヒアリングも併用されることになり、膨大、詳細なデータを取得するに至る。ここから先の進行は、一つはアホ・バカ分布図の完成を目指す言語地理学の未知の分野の旅路となり、いま一つは、アホ・バカという言葉そのものの由来をたどる古文書逍遥の旅路となる。以降は、その結果得られた知見に焦点を当てて、その意義を明らかにして行く。
( 2 ) アホ・バカ分布図完成への旅路
アホ・バカ分布 |
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2-1. 「バカ」は古く、「アホ」はいちばん新しい
いちばん最初の作業はアンケート内容の作成ならびにあて名書き、発送だった。発送総数3245通。著者が個人的に参考にしたのが、中公新書『日本の方言地図』(徳川宗賢編)、柳田國男『蝸牛考』である。
前著によると、方言には、さまざまな分布のパターンがあって、たとえば日本アルプスや鈴鹿山脈を境に、その東西に言葉が対立する場合がある。網野義彦「東と西の語る日本の歴史」(講談社学術文庫)に興味深い見解が見られます。
さらにまた分布パターンのひとつに「周圏分布」なるものがある。
たとえば東京にA、九州にもAという表現があって、近畿のBという表現をはさみこんでいるならば、Aは古い時代の京の都の言葉であったと推測することができる。
昔、京の都でひとつの魅力的な表現が流行すると、やがてそれは地方に向けてじわじわと広がっていった。つまり、「言葉は旅をした」のである。人が移住して言葉が広がったのではなく、人から人へ口伝てに都ことばが伝播していったのである。
「古語は辺境に残る」という「方言周圏論」は、柳田國男が「蝸牛考」で打ち出した理論だった。「蝸牛」とは「カタツムリ」のこと。柳田國男はこの「カタツムリ」の呼び名の方言分布を分析して、五つの方言が、京都を中心に同心円を描いて分布していることを発見したのである。すなわち、「カタツムリ」は、近畿地方を中心に「デデムシ(デンデンムシ)」と呼ばれ、その東西の地域、東海地方や福岡県では「マイマイ」と呼ばれる。さらにその東西では「カタツムリ」や「ツブリ」と呼ばれ、最後に都から遠く離れた東北と九州の一部では「ナメクジ」と呼ばれていた。これを、柳田國男が解釈して、「デンデンムシ」がいちばん新しく、「ナメクジ」が一番古い都の言葉であるとしたのである。こうした考えを傍証するのは、残された古い文献だった。
もし方言がはるかな時間をかけて地を這う旅をしてきたというのなら、その旅には一定のスピードがあったのではという素朴な発想から、伝播速度を計算した学者がいる。『日本の方言地図』の編者である徳川宗賢阪大教授である。それによると、伝播速度は東西南北あらゆる方向に向けてほぼ等しく、平均すれば年速、約930メートルとなる。
2-2. 第三次分布図の完成
記号説明 |
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アンケートがどんどん返ってきて、「アホ・バカ分布図」は豊かになり、同心円を描いていると思われる表現は23種にグループ分けできたが、最後まで残ったのが、東北地方の「ホ○ナシ」と琉球の「フリモン」であったが、後で詳述するが、両者とも見事に古の都言葉であったことが証明される。「ホ○ナシ」とは、岩手の「ホンズナズ」、青森の「ホンズナス」等をいう。
分布図に載せるのは、県単位以上、会津盆地の「オンツァ」のように、少なくとも地域語としてまとまった広がりを持つ表現にのみ限定し、かつ、そのすべてを採用することにした。
以下の通り。
「バカ」「アホ」「ダラ」「アンゴウ」「タワケ」「トロイ」「アヤカリ系語(アヤ・アヤカリ)」「ダボ」「ハンカクサイ」「ホ○ナシ系語」「タクランケ」「オンツァ」「ゴジャッペ」「コケ」「デレスケ」「ノクテー」「ホッコ」「ホレ」「ボケ」「フーケ(モン)」「フリムン」「ウトイ」「アホウ系語」
やがて、整理の進むにつれて、期待通り、同心円を描く近畿を挟む語彙が続々と発見されていった。
分布詳細 |
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まず、中部地方の特産物のように勢力を誇っている「タワケ」が、山口県、高知県西部、大分県南部など、西日本の広い地域から見出された。
同じく中部地方の「トロイ」は、やはり京都から同じ距離だけ西に行った四国南部にも広い領域を持っていた。山口県を中心とする「ボケ」は、四国にも少なくなかったが、やはり東にもあり、特に長野県北部からいくつも見出された。北関東に多い「コケ」は、広島県の大柿町と、愛媛県の宇和島地方にもあった。同じく北関東の「デレ(スケ)」に似た「テレ(スケ)」が、大分県に広く分布していた。茨城県の「ゴジャ」が徳島県佐那河内村にあった。
「ゴジャ」は中国・四国で「ゴジャを言う」(ゴジャゴジャした訳のわからないことを言う)が使われ、茨城県の「ゴジャッペ」と同根の言葉と思われる。
越前に広がる「ノクテー」は、兵庫県からも「ヌクイ」の形で見いだされた。また越前海岸の「アヤカリ(アヤ)」と同じものと思われる「アイカリ」が、京都を挟んで南側、紀伊半島三県の山間部各地からも回答され、奇妙なことに壱岐・対馬などにも「アイカリ」あるいは「アリカリ」と訛って飛び火していた。東北の北部・北海道の「ハンカクサイ」は、石川県能登半島の海に面した地域にあった。
紀伊半島の「ウトイ」に対しては、少数ながら福井県や富山県、長野県の山間部から回答があつた。「ダラ」地域、富山県の利賀村からは「ウトイ」が主張された。
このように集められた主要23種の分布地域のプロット図が別表「全国アホ・バカ分布図」である。
2-3. 「フリムン」は琉球の愛の言葉、「ホンジナシ」は本地忘れず
2-3-1. 「フリムン」は琉球の愛の言葉
琉球方言圏では、「フリムン」「プリムヌ」について辞書を調べると、どの辞書でも「気が触れた者」、という意味の「ふれもの」が語源とある。
これまで調べてきたアホ・バカ表現は、おしなべて婉曲的で、穏やかな比喩にもとずく表現が多かった。間抜けな動物たちの名前や、こころが虚しいという仏教語、あるいは、ぼんやり者という意味する各種の言葉である。日本人はこんな「つまらない言葉」にすらも、豊かな想像力と文化を注ぎ込んできたのだと著者は言う。
すぐに著者は「フリムン」とは「ほれもの」訛りなのではないのかということに思い至る。
「ほれもの」とは「惚れ者」、すなわちぼんやり者のこと。徳島県の吉野川流域の「ホレ(惚れ)」、西日本各地に分布する「ホウケモン(惚け者)」、これの訛りである佐賀・長崎の「フーヶモン」、山形・福島の「ホロケ」、さらに各地で行なわれている「ボケ(惚け)」。これらの古い形、下二段活用動詞「ほる(惚る)」の連用形に「もの(者)」がついた「ほれもの」が「フリムン」の元の姿ではないかと著者は考えた。
琉球方言とは、鹿児島県大島郡(奄美諸島)から沖縄県八重山諸島(石垣島・西表島など)に至る長大な琉球列島で話されている言葉の総称である。おそらくは卑弥呼の時代から大和朝廷が成立する時代にかけて、多くの人々が本土からいっせいに移住し、本土と隔絶された中で、独自の文化を生み出していったのである。まるで外国語のように耳に聞こえる琉球の言葉も、実は本土の言葉とルーツは一緒である。今は忘れ去られた本土の古語が、現在も琉球諸島に生きている。琉球方言の語彙で、本土の古い言葉(日本祖語)にルーツをたどれないものはない、とまで言われている。
2-3-2. 琉球方言の「ハ行」の特徴
琉球方言にはいくつかの大きな特徴がある。
まずひとつの特徴は、一部地域の例外をのぞき、母音が三つしかないという点である。
「あいうえお」は「あいういう」と発音される。問題の「ほれもの」、「ふれもの」の場合は、以下の通り発音される。
「ほ ho」 ⇒「hu
ふ」 「ふ hu」 ⇒ 「hu ふ」
「れ re」 ⇒ 「ri
り」 「れ re」 ⇒ 「ri り」
「も mo」 ⇒「mu
む」 「も mo」 ⇒ 「mu む」
「の no」 ⇒「nu
ぬ」 「の no」 ⇒ 「nu ぬ」
この段階では、「ほれもの」と「ふれもの」の可能性は五分五分である。
琉球方言にはもうひとつの大きな特徴がある。
それは本土の「ハ(H)行」が、琉球の多くの地域で「パ(P)行」となるという点である。
奈良時代以前の日本では、現在のハ行「はひふへほ」は、前半の報告通り「ぱぴぷぺぼ(P行)」と発音されてき、平安時代になると「ふぁふぃふふぇふぉ(F行)」と変化した。こうした古い日本語の「ハ行子音」の発音が、琉球諸島で永く生き延びてきたのだという。
「フリムン系語」蒐集結果は次の通りであるが、ハ行がP音やF音で発音される地域では「プリムヌ」「フィリモン」などと、土地土地の音韻体系が正しく反映されている。
@ ・・奄美大島(鹿児島県大島郡)
「フ(hu)リムンヌ」(笠利町)
「フィ(fi)リモン」(宇検村)
「フ(hu)リムン」(沖永良部島・徳之島)
「プ(pu)リムヌ」(与論島)
A ・・沖縄諸島
「プ(pu)リムン」(国頭郡伊江村、今帰仁村など)
「フ(hu)リムン(ヌ)」(那覇市・糸満市・浦添市・与那原町・豊見城町)
B ・・宮古諸島
「プ(pu)リムヌ」(宮古島・多良間島)
C ・・八重山諸島
「プ(pu)リムヌ」(石垣島・武富島・波照間島・黒島・西表島)
「フ(hu)リムヌ(ン)(石垣島[併用]・小浜島)
D 「フ(hu)リム」(与那国島)
ここで、一つの注意を喚起しておかねばならない。琉球列島の南に位置する宮古諸島と八重山諸島の発音が、ほとんどの島で「プリムヌ」となっている点である。この宮古・八重山で、「フ」ではなく、「プ」と発音されることが語源追及の決定的なキーになることが、次に明らかになるからである。
中本正智「琉球方言音韻の研究」によれば、琉球方言を九類に分類したうえで、
B6類(池間方言をのぞく宮古方言)において、
「ハ行音の特徴は、ウ段子音がfで、その他の段ではpをとどめている」
B8類(与那国方言をのぞく八重山諸方言)において、
「ハ行音の特徴は、ウ段子音がFで、その他の段ではPをとどめている」
と指摘されていた。つまり、本土のハ行「はひふへほ」は、宮古・八重山では「ぱぴふぺぽ」になり、さらに三母音転呼により「ぱぴふぴぷ」となる。現実に宮古・八重山では「フリムン系語」は「フリムヌ」ではなく、圧倒的に「プリムヌ」と発音されている。これらの音韻規則を「ほれもの」「ふれもの」に当てはめると「ぷりむぬ」「ふりむぬ」となる。従って、「ほれもの」語源説はありえても、「ふれもの」語源説はまったくありえないことになる。
2-3-3 「ホンジナシ」は本地忘れず
返ってきたアンケートを見て、著者は二つの仮説を立てる。そのひとつは、「本地なし」は、「本地垂説」
の本地である。いまひとつは、「ホンジナシ」という表現は、アホ・バカ表現のみならず、酒に酔って正
体のなくなった状態を言い表す場合に使用されるということである。
外来思想である仏教は、六世紀に日本への伝来を果たすや、この国になじむために日本古来の神道と
の習合(神仏習合)をめざした。
日本の神々の本当のお姿、すなわち「本地」は実は仏様であり、仏さまが日本の衆生を救うために神様
の姿(垂迹)となつてあらわれたもの(権現)である。天照大神の本地は大日如来、八幡紳の本地は阿弥陀仏等々、日本の神々はいちいち本地仏に当てはめられた。この思想は平安時代までには完成され、明治
元年(1868)に神仏分離令が発令されるまで、千数百年にわたって日本に存在した。
「ホンジナシ」のバリエーションは以下の通り。
「ホンズナス」(青森・岩手)・・・「本地なし」「本字なし」「方図なし」
「ホンキナシ」(秋田)・・・・・・「本気なし」
「ホジナシ」(秋田)・・・・・・・「ホジ(英知)ナシ」
「モンジャナシ」(山形)・・・・・「文字なし」
「ホデナス」(宮城)・・・・・・・「本地なし」「本字なし」「方図なし」
「ヘデナス」(福島)・・・・・・・「屁でない」
「モンズィナスィ(新潟県・粟島)・「文字なし」
東北の「ホンジナシ系語」は、分布図23語のうち、琉球列島の「フリムン(惚れ者)」の次に古い言葉、本土に残存するアホ・バカ表現の中ではもっとも古い今日の言葉ではないかと著者は考えた。これほど東北地方に広い領域を持つこの言葉が、なぜ他の地域で見られないのか。TV番組の原稿は、『都の言葉「ホンジナシ」は東北にのみ残った』とまとめざるを得なかったが、その後、鹿児島県姶良郡蒲生町から回答されていた「ホがない(ホがねー・ホがなか)」という言葉を思い出す。鹿児島県の方言辞典ではこれを「法がない」と断定していた。
「ホンジナシ」との関係性はないものと投げ出されていた。
「ホがない」も、「本地なし」の訛りではないかと思いついた筆者は、蒲生町の回答者に連絡を取る。
「『ホがない』とご回答いただきましたが、これは、どういう意味で使われている言葉でしょううか。『バカタレ』と意味が違うはずだと思いますが ? 」
「そういえば違いますね。考えがない、という意味です。思慮がなく、常識はずれの行動をとったときに使われる言葉なんです」
「お酒を飲んだら、どうなりますか ? 」
ホンジナシ分布 |
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「ホが無くなります」
意味も使い方も東北の「ホンジナシ系語」とまったく同じである。
「ホンジナシ系語」は、現在も生きている言葉である。本書が世に出た頃、わたしは前原誠司衆院議員秘書としていわゆる永田町界隈にいた。当時の東京都選出の日本新党衆院議員・山田宏(現自民党)事務所に岩手県出身の某秘書がいた。当時、まだ20代。「ホンズナス」と声をかけると目を丸くして驚いていた。新開さんたちと一緒に反原発運動に参加している田川晴信さんの奥さんは鹿児島市出身である。かの地のアホ・バカ表現について尋ねると、即座に「ホがねー」「ホがなか」と返ってきた。
このような方言も今後どれぐらい使われるのであろうか。甚だ疑問である。
国民国家が成熟してくると、すべてに中央集権化が計られる。日本ではそれに加えて単一民族国家政策が随所に遂行される。教育も全国一元化。言語も標準日本語。いよいよもって方言は衰微してゆく運命にある。アイヌ語や琉球語も同様の軌跡を辿ることでしょう。
( 3 ) アホ・バカの由来をたどる旅路
3-1 バカの由来
アホ・バカの由来を辿る道筋は、基本的には古文書、古辞書渉猟ならびに思索の旅である。さまざまな試行錯誤を経て、筆者が最終的にバカの起源として特定したのは、白氏文集である。唐の三大詩人、杜甫、李白、白楽天(白居易)の白楽天(白居易)が白氏である。
「馬家の宅」という言葉は、白氏文集中の「新樂府」の「杏を梁と為す」と、同じく「秦中吟」の「宅を傷む」という詩の中に使われている。
杏為梁 杏を梁と為し
桂為柱 桂を柱と為す
何人堂室李開府 何人の堂室ぞ李開府なり
・・・
君不見馬家宅尚猶存 君見ずや 馬家の宅は尚ほ猶お存し
宅門題作奉誠門 宅門題して奉誠門と作すを
君不見魏家宅属他人 君見ずや魏家の宅は他人に属せしも
詔贖賜還五代孫 詔し贖いて五代の孫に賜還せられしを
・・・
倹存奢失今在目 倹は存し奢は失う今目にあり
安用高 囲大屋 安くんぞ高 の大屋を囲むを用いんや
問題の「馬家の宅」は後ろから六行目に出現する。
「馬家の宅」とは「馬家のお屋敷」。「唐の馬遂が大金を投じて造営した邸宅」のことであった。のちにこの邸宅は、「馬家」の手を離れ、朝廷の保有するところとなり、「奉誠園」と改名された。慎ましく生きた「魏家」は五代の孫にまで屋敷は残されたが、「馬家」は亡んでしまったのである。白楽天は朝臣たちの奢侈の虚しさを説いたのである。そのシンボリックな姿が「馬家の宅」、つまり馬遂の邸宅であつた。
また、「新樂府」には「草茫茫たり」という詩がある。ここでも墓所の奢侈がそしられている。
奢者狼藉倹者安 奢なる者は狼藉にせられ倹なる者は安し
狼藉とは、中国では、狼が草を敷いて寝た跡、日本では、「狼藉にせられ」と読まれるようになり、狼藉の意味が、精神的な意味にまで拡大され、乱雑な様子から無法を為すと意味が拡大された。現在の「狼藉者」の誕生である。『馬家』はイコール「奢なる者」。そして「奢なる者」イコール『狼藉』。ここで初めて、『馬家』イコール『狼藉』の構図が成立する。しかも『馬家』は馬さんの家、『狼藉』は狼のねぐら、と対になっている。
古辞書、たとえば15世紀後期の辞書「文明本節用集」では、
馬鹿 或作母嫁馬嫁破家共狼藉之義也
(読み下し: あるいは、母嫁・馬嫁・破家と作る。共に狼藉の義なり)
「日葡辞書」の記述。因みに、この辞書の収容量は3万5千語余。
Baka バカ(馬鹿、馬嫁、破家) 物事を知らなかったり、躾が悪く、礼儀をわきまえなかったりするために、人がしでかすでたらめ。
従来の語源説の欠陥に触れる。
1.柳田国男「ヲコ」説 「モノ」が「アホ」には不要で、「バカ」にだけ必要であった理由に答えられない。
2.新村出・梵語説 「Moha」「Mahallaka」がそれぞれ「痴」「無知」あるいは「老弱」そのものを意味する言葉で
あるからして、とうてい成り立ちえない。「バカ」の意味はあくまで「狼藉」なのであって、そもそも
論理展開の基礎に誤りがある。
3.「破家者」説には、漢語の語頭を濁音に変化させるという手続きが必要であり、しかも何よりイメージの喚起力に乏しい。
4.さらに「鹿をさして馬という」のは史記の故事説には音韻上の無理がある。「馬鹿」と書くのが正しいなら、漢音の「バロク」
と発音されなければならない。なお、「馬家」は漢音ではむろん「バカ」である。
平安時代の知識人にとって漢書は必見の存在であった。清少納言は漢文の中で好きなもの、素晴らしいものを問われて、
書は文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申文。
「源氏物語」には白氏文集を踏まえた記述がざっと100ヶ所ぐらい(中西進の研究)。「馬家の宅」が出てくる「新樂府」と「秦中吟」の詩を踏まえたものが24ヶ所(近藤春雄氏の研究)。詩だけでも2800余首を収める膨大な白氏文集のうちで、「新樂府」はわずか50首、「秦中吟」に至ってはわずか10首。合わせて60首に過ぎない。「新樂府」と「秦中吟」は白氏文集の中でもとりわけよく親しまれていた詩編だつたことが窺える。
白楽天の詩句は『白氏文集』だけから引用されただけではない。平安時代に編まれた歌謡アンソロジー『和漢朗詠集』から孫引きされることも少なくなかった。ここに収められた中国の詩人の作品のうち、白楽天の『白氏文集』からのものが、驚くなかれ七割近くを占めていたのである。
李白や杜甫は、古代・中世の日本では、ほとんど問題にされることはなかった。このふたりが広く日本で受け入れられるようになつたのは、江戸初期に『唐詩選』が入ってきてからのことである。
以上の試行錯誤を経て、著者は、「バカ」は知識人階層に膾炙した「白氏文集」中の『馬家の宅』が、まず知識人に「バカ」の意味で使われ始め、やがて都の新しい言葉として、全国へ旅立っていったと結論づけるのである。
3-2. アホの由来
3-2-1 「アハウ」の由来
アホの由来を尋ねる旅は、基本的に文献の初出を辿る渉猟の旅である。
「日本国語大辞典」における「あほう」の「(名)知能が劣っているさま。また、そのような人。行動。おろか。ばか。
あほ」の項には、次のような文献が載せられている。
1. 鴨長明・発心集--八・聖梵永朝離山住南都事「臨終にさまざま罪ふかき相ともあらわれて『彼のあはうの』と云いてぞ終りにける」
2. 虎明本狂言・鈍太郎「いやいやしんだらば、いよいよあほうじゃと云てわらわれう」
3. 日葡辞書「Afouo(アハウヲ)ユウ」
4. 浄瑠璃・重井筒−上「女(をなご)同士に恥を見せ、男(おとこ)は寝取られ、寝間帳台は見さがされ、あほうの数々よみつくされ」
他を調べると、三省堂の『時代別国語大辞典 室町時代編』の記述がいちばん詳しくて、「アハウ」はさらに戦国時代の抄物『詩学大成抄』(永禄年間−1558~70年に成立)に顕れるとある。
何ゴトニモナマ心エナコトヲスルゾ。ココラニアハウト云ツレゾ。
1. に関しては、簗瀬一雄という「発心集」の碩学の研究により、7.8巻は後世の偽作と判明。鴨長明は、生きた時代に流布していた「ヲコ」「コケ」でアホ・バカ表現をしていた。
2. の虎明本は初版ではなく、代々、口承で伝わり、後世の書き込みが入っている。4.に至っては虎明本を底本としている。
3. 日葡辞書は江戸幕府成立の年、発行された。
4. 『詩学大成抄』は、近年の研究により、京都五山のひとつ、相国寺住持90世・惟高妙安(1480~1567)によるものとわかつた。惟高妙安82歳の折、若い禅僧たちに
何ゴトニモナマ心エナコトヲスルゾ。ココラニアハウト云ツレゾ。
と講義したのである。『詩学大成抄』の「アハウ」の左側に傍線が入っている。傍線は、通常、漢語由来を示すために入れるものである。
もし発心集の「アハウ」が偽りのものであったなら、この言葉の初出は、三世紀半も下った戦国時代の『詩学大成抄』であるということになる。また、惟高妙安が若い禅僧たちの講義で使ったということは、「アハウ」が当時、誰にでも理解できる言葉として流布していたことを意味する。
一方、著者は、スタッフが中国人学者に問い合わせて、「阿呆(アータイ)」が古くから中国・江南(揚子江以南の地域を指して言う)、蘇州で使われているという情報を知る。
大修館書店発行の『中日大辞典』には、
[阿呆] adai = [阿帯]方言・ばか者。のろま。: 蘇州人が杭州人をあざけっていう語。杭州人は蘇州人を[空kong頭]という。⇒[京jing油子]
[阿帯] adai同上。
「呆(ガイ・タイ)」は中国で、愚かという意味の言葉「 (ガイ・タイ)」の俗字と理解されている。「阿 」は、『元人百種曲』(明代・1368-1644末になって江南でまとめられたもの)に登場する。「阿 」は「阿呆」はまったく同じものと考えられる。残念ながら、物証は得られなかったが、「阿呆」が明から持ち帰られた可能性は高いと著者は考える。
著者の想像はこうである。
今に伝わらない何かの書籍、一五世紀ごろの明の白話文学、すなわち元曲や小説の類が、禅僧または商人の手によって杭州の書店で購入され、日本に持ち帰られた。その書籍の文章には「阿●(アータイ)」の俗字、「阿呆」の二字熟語があった。中国では「アータイ」もしくは「アーガイ」と発音されたが、日本では京都五山の禅僧によって、旧来の読み方の習慣に従って「アハウ」と読まれた。禅寺では、同時代の白話文学な
ど文学的価値は低いものと見捨てられ、やがて散逸した。しかし、「アハウ」という音だけが生き残り、ひとり歩きを始めたのである。かなで「アハウ あはう」と書かれ続けてはきたけれど、しかし、これが
漢語であるという記憶だけは、禅僧をはじめとする知識人の間でしっかりと保持され続けた。あるとき都の知識人によって、漢語であるのなら「阿房宮」の故事からきたのではないかというアイデアが思いつ
かれた。これは庶民にも面白がられ、支持されて定着した。こういう語源説を新しい学術用語で「社会語 源説」という。こうして江南の「阿呆」が、近世上方で豊かに「
阿房あぼう」の花を咲かせていたのである。
4. エピローグ
日本には、日本アルプス、または鈴鹿峠を境に、表現が真っ二つに分かれるケースが少なくない。たとえば、「居る」ことを東日本ではA「イル」、西日本ではB「オル」という。また「七日」のことは東でA「ナノカ」、西でB「ナヌカ」。「明後日の翌日」は東で「ヤノアサッテ」、西でB「シアサッテ」。「借りる」ことは東でA「カリル」、西でB「カル」。 これらを見ると、現在は東日本にしかないAが、もともとは日本全国を覆っていたのではないのだろうかと思えてくる。やがて上方に新しくBが生まれ広がった。新興の江戸の圧力によって自然の障壁、日本アルプスなどで塞き止められたが、西に向かっては抵抗する大勢力がなく、そのままBに塗り替えられていった。その結果として現在の東西対立が成立したと思われる。(網野義彦『東と西の語る日本の歴史』参照)。
江戸後期にいたって、東西の言葉がぶつかり合い、やがて東西に対立するようになった。東西対立の方言分布の完成は、実はきわめて新しいのである。
方言への愛着深い著者の資質は、既に京大法学部在学中に開花していた。著者は、桜の名所琵琶湖畔・海津の出身と推定されるが、当時、祖母が喋る言葉をノートにつけて方言辞典を作った。その言葉はまさ
しく京ことばであり、わたしも幼少時、慣れ親しんだ言葉であった。 少ないを「たしない」、ええっとを「こうつと」、羨ましいを「けなりや」、悪戯を「てんご」、オシャレすることを「やつす」、やきもちを焼くを「へんねしおこす」、申し訳ないを「きずつない」、ありがとうご苦労様を「おおきにはばかりさん」、それどころでないを「そこそうばない」、夕方の挨拶は「おしまいやす」、次から次へとを「せんぐり」、ごっつぉーさん(ご馳走様)を言った人に向かっては「よろしおあがり」・・・。どれもこれも近世の京都から伝わった言葉である。このような言葉に触れると、ゆったりとした異次元の郷愁に満ちた心地になる。しかし、もはや我われに、次代に話し言葉で伝える能力は失われており、如何ともしがたい寂寥感が残るのみである。
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