山スキーの思い出 山川正彦 1.64歳で始めました 私は学生時代にスキーの複合競技をやっていました。荻原健司が活躍したジャンプとスキーで長距離を走る距離競技との合計点で争うものです。これについても懐かしい思い出があるのですが、今回は触れません。 2004年(1940年生まれの私が64歳になった5月の連休)に山内君が、「お前は大学でスキー部やった 翌日は東一の越からタンボ沢と言うスロープを3q程ノンストップで降る豪快なスラロームを楽しみま 山スキーと言うのは前述したようにスキーの踵が上下に動くようになっていて歩くように登って行きます。登る時はシールというものをスキーの裏側に張り付けます。シールとは元々アザラシの皮を使っていましたが、現在我々が使っているのは合成樹脂で出来たシールで裏面に接着剤が付いていてスキーに貼り付ける事が出来ます。滑る時はシールを外してリックに仕舞い、長い滑りが始ります。滑る時は靴も上下しないように固定します。シールを外すのは山を登り切ってからで、大抵は大休止して食事をしたり、周りの景色を写真に撮ったりします。このような状況は「山男の歌」の二番の「シール外してパイプの煙・・・・」を思い出して下さい。写真のように雪の上に腰を下ろしていますが、スキーを裏返すと滑走面には雪が付かないので快適です。 2.ツアーのこと その後毎年20日間位ゲレンデも含めて滑りましたが、特に印象の深いのが北海道のツアーです。千歳空港まで飛行機で行きマイクロバスに迎えて貰って温泉に泊まりニセコ国際スキー場で滑ったあと、リフト終点からスキーを担いでニセコアンヌプリ(1,308m)に登ったり、羊蹄山(1,898m)の中腹まで登り快適な雪質の斜面を滑りました。積丹半島のつけ根にある岩内と言う閉鎖されたスキー場をシールを付けて出発、3時間半登って12時半に岩内岳に着いて昼食、目国内岳へ登り新見温泉に滑り降りました。翌朝8時出発、白樺岳を越えて五色温泉に着いたのは16時半、実に8時間半のロングツアーでした。北海道では富良野から十勝連峰に入ったり、大雪山の旭岳を滑りました。北海道は緯度が高いので本州に比べて山の高さに比べて厳しさが違います。一例として長野県の高峰では「這松(ハイマツ)」は標高2000m辺りか 3.登りのラッセルと降りの苦労 新雪の山を登る時はラッセルと言って、雪を踏み固めてシュプールを作り後の人が少しでも楽に登れるように頑張りますが、このラッセルを私は良くやりました。誰も踏んでいない雪の上を道を切り開いて登るのは楽しいものです。登りはリーダーを先頭に弱い人がそのすぐ後ろに続き一列になって登ります。誰も居ない山を登っていくので方向を決める事が非常に大切です。リーダーのKさんは我々の5歳年長でしたがどこでも迷わず案内してくれました。八甲田山では猛吹雪で何も見えない中を見事にルートを見つけてくれました。八甲田山は日露戦争の直前に陸軍が訓練として登り200名弱が凍死した事件で有名ですが、流石に山が広くて猛吹雪ではどこにいるのか分かりません。現在ならGPS機能を持った機器で現在地も把握出来ますが、約10年前は磁石と高度計と地図だけで見事にルートを見つけてくれて無事に下山しました。春山は大丈夫と思って登っても天候が急変して恐ろしいものです。 滑り降る時もいつも快適なわけではありません。バリバリに凍った急坂などスキーの上手い我々でも手古摺りました。モナカ状の雪(お菓子の最中です)と言って、春など表面は普通の様に見えてすぐ下が解けて空洞になっている時はターンが出来ず腰を落としてゆっくり降りました。深雪の中を滑り降りる時、雪が深いと回れず転倒しますが、荷物を背負っている時など起き上がるのに苦労しました。森の中を降る時も木に衝突しないように、注意深く滑りますが、木に衝突して脚や肋骨を骨折した仲間もいました。 4.最後に 山スキーの楽しさはなんといっても人がまったく居ない山を自分たちでルートを決めて登り、誰も滑 いつも行動を共にしていた山内君が3年前のスキーシーズン直前に急死しました。その年はショックで 昔スキーをされていた方はまたゲレンデに行かれては如何ですか?今のスキーは身長程度の長さで扱 |