寮歌を愛して半世紀
                                                            松浦武弘

 私は旧制高等学校の寮歌が好きで、学生時代より歌い続けてきた。一番好んで歌ったのが第八高等学校寮歌「涙の壺」である。熱砂のパキスタン、カラチで、赤道直下のコンゴ(当時ザイール)、キンシャサで、極寒のモンゴル、ウランバートルで折に触れて紹介した。
実際には、下記二行を前置きの辞として述べた後、三番(その下の一行)のみを歌った。
 
 吉田寮時代


 第八高等学校寮歌「涙の壺」     アイン ツバイ ドライ!

 涙の壺は深けれど 丘の三年の思い出に 去りゆく児等が燦々の 涙溢れてとどまらず
 ああ青春の感傷や 汝の命の儚くも 如何で忘れん現世の 儚き旅のオアシスよ

 賢き人と成るなるなかれ 暫しもやめよ世故の才 想う心を一筋に 変わらぬ男児 意気ぞ 良し

 私は旧制高等学校に憧れ、寮歌を好み、大学時代から寮歌を放吟し、詩吟を好んできた。
 一回生の一年間は黄檗の宇治寮で暮らし、二回生以降京都に移ってからは吉田寮で過ごし、旧制高等学校の寮歌を歌ってきた。
剣道部に所属し、久留米絣に羽織を着け蛮声をあげる私は、友人達から右翼のアナクロニズムと蔑まれた。
 私が好んだ寮歌は以下の如き寮歌であった。
三高寮歌としては「逍遥の歌」「琵琶湖周航の歌」「行春哀歌」「月見草」等であり、吉田寮・寮歌として「紫匂う」などがある。
他にナンバースクールの寮歌として、一高「ああ玉杯に花うけて」「春爛漫の花の色」、二高「天は凍北」、四高「南下軍の歌」「北の都に秋たけて」、五高「武夫原頭に草萌えて」、六高「北上記」「新潮走る紅の」、七高「北辰斜めに」、八高「涙の壺」「伊吹おろし」等である。

 寮歌以外に、「北帰行」(正調)「アルト・ハイデルベルグ」等を歌い、詩吟を好んだが、数十人の宴席で、寮歌や詩吟に蛮声をあげると、座が白けて通夜ムードに成ることが常である。従い、披露するのは大勢の酒席は避けて、少人数の会席に限った。
 昨年5月22日、経済学部卒業50周年で京都に集い、夜はクラス毎のコンパを楽しんだ。30人余りが集まったが、70歳を超えて酒量も減っており、クラス会で初めて「涙の壺」を披露した。

 大学に入学した昭和35年が安保闘争であり、卒業の39年が大学管理法案闘争で、学生運動に明け暮れた4年間であった。当時の学生運動は主流派の社会主義学生同盟の書記長を北大路敏(京大同学会委員長)が務めており、経済学部は急先鋒であった。クラス討議、学部集会、オルグ活動、デモ行進、インターナショナル歌、京大反戦自由の歌など合唱に明け暮れている中で、蛮声を張り上げ寮歌を歌う姿は、多くの学生の目には右翼の時代錯誤者と映ったであろう。

 吉田寮コンパは、一年後輩の古松彬弘氏のご厚意で、二月の建国記念日前後の金曜日の夜、代々木倶楽部「たたらの間」で毎年開催しており40年は経過している。昨年の二月は突然の大雪に見舞われ、大変な不便を感じたので、小生の発案で、本年は5月15日の昼の開催予定に変更された。コンパの最後は、古松氏の「そろそろ歌いますか」の言葉を合図に、全員が肩を組み大円陣を作り、当番幹事の指示で京大寮歌、寄宿舎寮歌「紫匂う」「逍遥の歌」「琵琶湖周航の歌」「月見草」「行春哀歌」等を歌う。数十人の中で、歌詞を持たずに歌うのは、私一人である。

 明治時代の木造二階建て寄宿舎(北寮、中寮、南寮の三寮よりなる)は、三高の寮ではなく大学の寮であり、現存する日本最古の学生寮となっている。
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