69年前の思い出

 もう今年で終戦から69年なのですね。マンション6階の自宅の部屋の畳を新しくしたので、風が通り抜けるところで寝転んでいました。福岡県久留米市の郊外に城島と言う町があります。69年前の夏にその家の大広間で寝転んでいた事をふと思い出しました。

 1945313-14日に大阪大空襲があり、私達一家が住んでいた東住吉区西今川から近い西田辺の町も広範囲に焼けてしまいました。その少し前の2月に父・信夫の長兄・孝吉に子供が無くて山川家が絶えると言う事で、信夫一家が孝吉の養子になりました。戦局がいよいよ厳しくなり、食料事情も悪くなりました。兄の信一郎が小学校に上がるのを目前にして、集団学童疎開の話も出ていました。

5月になって父だけ大阪に残って、母・ヒサ、兄・信一郎、私と妹の美樹子の4人で久留米へ疎開することになりました。孝吉は久留米市内の日吉町に大きな眼科医院を開業していて、病院と居住スペースが同じところにありました。

やんちゃだった私は病院の中や近くの神社などを走り回って遊んでいました。しかし久留米の中心部も空襲で危なくなると言う事で、城島へ行くことになりました。城島は久留米から南西に10kmほどのところにあり、孝吉の大学時代の親友・岩城省一郎さんが眼科医をしていて、入院患者用の居住スペースもあると言う事で住まわせて貰うことになりました。

西鉄の電車で大善寺と言うところで降りて、軽便鉄道に乗り換える筈だったのが、電車が故障で歩かなければなりません。7月の中頃だったか、暑い日で城島までは大変でした。今、地図で調べると約5kmありますが、看護婦さんでも一緒に付いて来てくれたのか記憶はありません。汗一杯かいて歩いてやっとお家に着いたら岩城先生や奥さんが歓迎してくれて、冷えたスイカを食べた事を思い出します。

岩城医院の周りは掘割があり、レンコンが植えてあり蓮の花がきれいでした。すぐ近くの三潴高校の校庭に遊びに行ったりしました。記録を調べると佐賀の空襲が85日にあったようです。夜中、岩城家の庭から西北西の空が真っ赤になっていたのを思い出します。また時々戦闘機が病院の上を飛んで行き、屋根に登って見ると、飛行士の姿も見えました。先生から危ないから降りろと厳しく怒られました。89日だったのでしょう、長崎の原爆雲(これも後からの推測ですが)のような凄い雲がモクモクと湧き上がっていたのを思い出します。

811日に我々が住んでいた久留米の屋敷や医院が大空襲で焼けてしまいました。城島へ疎開していなければ、我々も怪我をしたり命をなくしたりしていたかも知れません。

815日の玉音放送は大人も子供も大広間に集まって、これから天皇陛下が何か言われると言う事で、畏まって座っていました。しかし何を言っているのか雑音の合間に声が少し聴こえるだけで、私など勿論分かりませんでした。しかし、先生や大人達は戦争が終わった事を理解して沈み込んでいました。

それからしばらくして、父が大阪から会いに来てくれました。父は我々の生死も知らず、不自由な交通事情の中を来てくれたのです。一方、岩城先生は「信夫先生ば生きておらっしゃったばい!」とおお喜びしてくれました。お互いに生死の分からないきわどい時期だったのですね。当時、父は大阪で単身生活をしていて、母への手紙で「昨日の豆は塩っぱく・・・」と書いてきたそうです。

わずか4-5ヵ月間の事だったし、まだ幼稚園に行っている歳なのに実に鮮明にいろいろな事を覚えています。岩城家の病院も含めた邸宅や中庭の配置、座敷に通り抜けた風まで記憶にあります。あの玉音放送を聞いたラジオがあった場所、その前で大人達が泣いていた風景・・・・。

兄・信一郎がその頃学校に行っていたのか覚えていません、城島に移ってからは私も幼稚園に行きませんでした。しかし久留米の日吉町から通った花陣の幼稚園には女の子と手を繋いで通った記憶があります。妹の美樹子は二歳でまだ言葉が話せず、急に話始めたら「アカン、アカン」という大阪弁で、岩城先生が後年笑って何度も話題にしました。

それからしばらくして、一家で大阪に帰りました。帰りの汽車で、広島の原爆のあとの何もない町を見たのですが、私はあまり記憶がありません。途中の駅で長時間列車が止まっている時に、進駐軍の兵士がガムをくれたことは覚えています。

食べ物が無くて「おっさん、飯おくれ、豆入った飯おくれ!」などと歌い、芋の蔓を炊いたものとか、イナゴの干したもの、蜂の子を捕まえて食べたり・・・・、飽食の今と今昔の感があります。苦労して我々を育ててくれた母も若くてバイタリテイがありました。92歳で亡くなった母がまだ34歳だったのですからね。帰阪して223月に末妹・房子が生まれましたが、その前年「来年赤ちゃんが生まれるから、丈夫な子が生まれるように神様に一緒にお祈りして頂戴」と母が言った言葉が今も心に残っています。

断片的な記憶しかありませんが、何か記録を残しておきたいと思い、雑文を書きました。                山川正彦 H26.8.12

 
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