私の「伊藤忠」生活
                                                                          2010.1.2 松浦武弘

私は、19644月に伊藤忠商事鰍ノ入社し、繊維機械の輸出業務に携わり、為替変動の中で生きてきた。勿論1971815日のニクソン・ショックまでは、1ドル360円の固定相場制であった。

私の初めての海外出張は、19685月から11月まで、カンボジア、パキスタン、タイ、ヴェトナム諸国であり、海外出張規定で、その当時の出張手当はUS$16.00であった。(初任給は2万円で、給料も安かった)香港で帰国時に、手持ちのドルを円転したが、その時のレートが1ドル「380円強」であったと記憶している。

19697月にパキスタン、カラチに駐在員として赴任し、197112月に第三次印パ戦争でJALの救援機で帰国したが、10月に東パキスタン出張中にダッカで最大の爆破事件に遭遇し「九死に一生」を得た。当時、日増しにインド軍の侵入が激化しており、ダッカ市内の爆破事件は日常茶飯事で、大型化し続けていた。

帰国して、業務本部長の瀬島竜三専務に業務部長と一緒に挨拶に行き、状況につき報告したとき、瀬島氏より「自分は算盤は出来ないが、戦争は専門である。この戦争は長引くよ!」と言われ、私は「乞食といざりの喧嘩は長引きませんよ!」と反論したかったが、黙っていた。12月中には印パ戦争は終結した。

私のカラチ駐在中には、ニクソン・ショックによって契約の変更など諸種の問題が起こり、極めつけが第三次印パ戦争で、東パキスタンが消滅し、バングラデシュ誕生となった。妻はカラチで、日本人で最初にして最後のお産で、19712月、長女を出産したが、頼みの綱は松田道雄先生の「育児百科」だけであった。

その長女も今や37歳になっている。先般、長女が帰宅した時「センチメンタルジャーニーで、パキスタンに4人で行こうか?」とさそったが、来年でもペシャワールを避けて、カラチ、ムルタン、モヘンジョダロ等手作りの家族四人旅を企画したいと考えている。

1973年に、新設の輸出繊維機械東京支部に移り、ソ連コメコン向けに繊維機械の拡販に努め、私はソ連以外を担当し、主要市場はポーランド、ブルガリアであった。1973年末からは、ブルガリア向けポリエステル後加工プラント(帝人の技術協力で)のネゴを始め、19757月の最終ネゴには、帝人大屋晋三社長夫妻も参加し、725日、100億円の成約に持ち込んだ。契約条件にプラント代金の60パーセントの見返り輸入義務(C/P)が課せられ、大変な契約であった。プラントを構成する機械はヨーロッパ・メーカー製品が多く、ドイツを中心に英国、オランダ、スイス、デンマーク、イタリー等の多数のメーカーを訪問した。ブルガリアのプラント建設後、モンゴル向けの50億円の無償供与案件のカシミヤ・ラクダプラントの建設に関わり、現地にも出張した(1980730日―812日)が、当時は北京から列車による旅であり、片道48時間を要した。ノモンハン事件等の戦時賠償を50億円の無償供与の形でsettleし、それがカシミヤ・ラクダ製造プラントの納入となったわけである。ウランバートルは極端に乾燥しており、握手した時に「パチン」と大きな音がするくらい静電気が発生した。

私は1980101日付けで、ソ連共産圏貿易から、東南アジア(中国を含む)地域の担当課長となり、新生ヴェトナム向け10万錘紡績プラント120億円(東洋紡績の技術指導)の契約の履行を担当した。

197112月の第三次印パ戦争後、有罪放免で内地勤務となり10年が経過して、あちこちで駐在の話が取り沙汰されていたが、198111月夕刻、部長より「キンサシャはどうだ?」で年貢を収めた。

私のキンサシャに対する、その当時の知識は、「鰐」「リビングストン、スタンレー」「豹の腰巻の土人の門番」「コバルト」「伊藤忠の橋」ぐらいであり、大学の友人達も「アフリカの右か?左か?」と言うぐらいであった。

我々商社マンはサハラ砂漠以南をアフリカと言うが、東アフリカは英国植民地が多く英語圏で駐在地の生活環境としては「良く」、生活環境の悪い、「マラリア汚染地区」・西アフリカとは区別して考えられてきた。

19823月から19845月まで2年余り、コンゴー共和国に駐在した。

フランスの港町「ラロッシェル」で、2月末より3週間ほど、フランス語の個人教師による特訓後、320日過ぎに当時のザイール共和国、キンサシャに赴任した。マタデイ橋の吊り橋のプロジェクトで、伊藤忠が幹事商社で三井物産、三菱商事がサブであったため、大使の公邸でも物産、商事の上席に座る、数少ない店であった。

短い駐在期間中に、マタデイ橋竣工式、経団連ミッション(団長、三菱重工業葛熕X会長)等があり、最大のイベントは天皇・皇后両陛下のザイールご訪問を、日本人会会長としてお迎えしたことである。

1983年の夏休みに一ヶ月間、家族(長女は中学生、長男は2年生)を私費(三百万かかったが)で呼び寄せたのは(後一年間、駐在を延期すると、会社の費用で呼べたが・・・・)、良い決断であったと考えている。

コンゴーはレアーメタルの宝庫で、コバルトは世界の60%を産出しており、ミサイルの先端部にはコバルトが必須で、アメリカがミサイル製造の為には、軍事的最大重要拠点であった。

19841123日、卒業20周年で経済学部の同期生が初めて京都に集まった。同じクラスの中野一新君(当時京大の助教授)が、講演者に小生と梅本弘君を決めていた。私はコンゴーのキンサシャから帰ったところで、中野君は「松浦はクサッタ後進国を廻っているので、漫談させれば面白い」と思い小生にお鉢が回ってきたと思っていた。法経第七教室での小生の演目は「現代商社マンの見た世界新事情」となっていた。

私は、法経第七教室が、小生のゼミナールの吉村達次助教授が二年毎に「経済変動論」の講義をされた馴染み深い教室であることから話を起こした。「ソ連コメコン諸国の社会主義は『ファシズム』であり、必ず崩壊する」と断言し、締め括りとして「恐慌は必ず到来する・・・・その為には『金を買え』」と申しました。

198941日付で香港に駐在し、19916月帰国したが、出身原隊である輸出繊維機械部自体が死に体となっており、加えて新任輸出繊維機械部長が輸出の全然分からない、国内・輸入部隊出身者であり、デフレ不況下で、伊藤忠でもリストラが進んでいた。香港から帰国後すぐに業務部関西プロジェクト室(東京駐在)勤務となり、アジア太平洋トレードセンター(ATC)の仕事をすることになった。

1994年から2000年まで7年間、私は東京本社独身寮である「山手寮」(350名)の寮長として、若い社員たちと過ごす幸運に恵まれ、山手寮自治会の委員たちと毎月会議を行い、自分の経験を話し、世界にかける商社マンとしての心がけを教示し、2000331日をもって山手寮を閉寮すると同時に、定年退職した。

伊藤忠の営業活動も組織も変わり、出身部隊の栄枯盛衰も激しく、全く様変わりしており、東京本社を訪れても、別会社のように感じるが、必ず元寮生に声をかけられ、独身寮の寮長をやったおかげと、感じている。

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