『キンシャサ会』                                                                                   
2010.2.20
                                                松浦武弘

毎年恒例の『キンシャサ会』が、211日の建国記念日に開催されて久しい。 私は、19823月から19845月まで2年余りキンシャサに駐在し、香港駐在中や海外出張を除き、帰国してからは参加者の常連である。 「コンゴ民主共和国」は、独裁者、モブツ大統領が「ザイール化」政策をとった結果、国名を「ザイール共和国」と呼び、コンゴ川を「ザイール川」、通貨を「ザイール貨」と呼んだ。

<コンゴの歴史>の概略は以下の通りであるが、196511月にモブツがクーデターで全権を握った以降、コンゴはモブツ大統領の独裁体制が続き、私が駐在した期間は政治情勢は安定していた。

 1885年−1908年 コンゴ自由国(ベルギー国王の私有地)

 1908年−1960年 ベルギー領コンゴ      1960年−1971年 コンゴ民主共和国 

 196511月 モブツがクーデターで実権掌握  1971年−1997年 ザイール共和国

 1997年現在   コンゴ民主共和国

私が赴任して半年ほど経過した後、資源の重要性も分かってきた政府は、大物大使、「小宅庸夫」氏を派遣した。小宅氏は49歳の若さで張り切っておられ、前任大使とは全く異なり、是非をはっきり言われ、積極的に行動されるお方であった。 特に父親が国鉄の技術畑のOBで、東大で「トンネル工学」の講義をされていた。 

「マタディー橋の吊り橋工事」は、伊藤忠商事鰍ェ幹事商社で、三井物産梶A三菱商事鰍ェサブとなっており、大使の公邸で、物産、商事の上席に座る数少ない店であった。 小宅大使在任中に「マタディー橋竣工式」というイベントがモブツ大統領臨席のもと、各国大使も参列し行われた。 加えて、大使の働きかけで「経団連ミッション」(三菱重工の金森会長が団長)、JICAのコンタクトミッションと相次ぎ、大使在任中の一大イベントは「天皇陛下及び皇后陛下のザイール公式訪問」で、この大行事も盛大に挙行され、成功裏に終了した。

殿下・妃殿下の公式訪問は198431日から34まであったが、アフリカのこと故、瑣末な手違はあったが、概ねスムーズに予定通り行われた。 皇太子殿下・妃殿下としての最後の公式ご訪問であり、御召し機もダグラス社製の「DC?8」機の最後であった。 私は小宅大使の特別のご配慮で準備戴いた「パス」を胸にし、キンシャサ空港内ではプレス関係者として、自由に動き回ることが出来た。


 (PRESSE) 
                   (当時の色あせた名刺)

1983年の夏休みに1ヶ月間、家族をキンシャサに呼び寄せたが、後1年間駐在期間を延長すれば会社負担で呼び寄せ可能であったが、私は敢えて「私費」とした。 当時、三百万円の出費は痛かったが、私の決断は今でも間違いではなかったと確信している。 丁度、家族が日本を出発する一週間前に、SONYが一体型のビデオ撮影機(ベーター版)を発売したので、妻に携行させた。 このSONYのビデオ撮影機で、キンシャサ空港ご到着時と御帰国時の殿下・妃殿下のご様子を間近から撮影する大道具となり、この天下無敵のPRESSEが、空港を自由に動き回れる「葵の印籠」となった。

  (皇太子殿下・妃殿下との面談)於 大使公邸 19843月3日

33日の夜、大使の公邸でのパーティーで、両殿下と親しくお話する機会に恵まれた。

ご到着の31日の夜、首相ご夫妻主催の歓迎の宴が、文化宮殿で挙行され、キンシャサ在住の日本人が招待された。

32日の夜は、機長始め搭乗員全員を伊藤忠の社宅に招待したが、搭乗機の団長とパーサーとスチュワーデス全員が参加した。

団長の尾崎氏は日本航空の取締役で祖父が尾崎咢堂で奥さんは伏見宮家から嫁いでおられた。 チーフ・パーサーが宮崎県選出の議員の子息で、第三次印パ戦争の折の救援機のパーサーを務めていたことが分かり、不思議な因縁と、杯を重ねる羽目となった。 社宅の応接間には、一段高い舞台があり、盛大なダンスパーティーを、楽しむことが出来たが、キンシャサ在住の男性(帝国石油とJETROの所長と小生)は単身赴任の三名だけであり、妻女を帯同している物産・商事の所長等からは羨ましがられた。

コンゴはレアーメタルの宝庫で、コバルトは世界の6割を産出し、地政学的にも重要な拠点であり、ベルギーの植民地時代から独立後もコンゴ動乱勃発までは、極めて平穏であった。 1955年、初代大使として赴任された山本学氏は「当時はアフリカの天国」であったと話された。 赴任前に元駐在員達にコンゴの状況を聞いたが、駐在の時期により状況はマチマチで極端な違いがあったが、私の駐在した短い期間を考えれば、スーパーマーケットに十分物があり(値段を別とすれば)最高の時期であった。 マタディー橋が予定より一年以上早く完成した為、残った日本食材を割安で入手出来て、古米ではあったが「コシヒカリ」を常食出来た。 

従い、「ピグミー・チンパンジー」の研究者(京大の霊長類グループ)にも日本食材をアレコレと携行させた。 19838月の一夜、呼び寄せた家族と共に社宅で夕食を共にした、清々しいハンサムな若い研究者も、二十年後のNHKTV番組に登場した時は、小太りで禿げた中年の明治学院大学の教授になっていた。

「ボノボ」Tシャツ姿の、高倍宣義元大使は「彼、今は京大教授だよ。このシャツは霊長類グループの募金シャツだ」と言われた。 キンシャサ会は幹事当番制をしき、毎年2月11日の建国記念日に開催してきたが、十数年前から、当番幹事制をやめて旧国鉄が「村上温」氏の指揮下で幹事を努め、開催場所も飯田橋のホテルエドモント決まっている。 マタディー橋が竣工(1983年)から30年弱を経過して、今なおキンシャサ会が盛況を極めているのは、天皇・皇后両陛下がザイールを公式訪問され、当時駐在中の日本人達が(殆んどマタディー橋関係者である)両殿下と親しくお話をさせて戴いた貴重な思い出が、関係者の間に増幅されている結果と、私には感じられる。 マタディー橋工事現場を両殿下は訪問された時、お迎えした国鉄関係者の家族の中で、何人かの幼児は妃殿下に抱いて頂く光栄に浴した。 マタディー橋現場から、インガダム訪問時など、先導のオートバイが二台とも故障し、両殿下が分乗されている乗用車の先導は、大使たち関係者のマイクロバス(伊藤忠が無償援助で道路局へ納入した『いすず製のマイクロバス』)がする羽目になった。 マタディー空港からキンシャサに向かう飛行機のエンジン・トラブル問題など想定外の事故もあったが、決定的な大事故は起こらず、アフリカとしては、先ずは上手く行ったのではなかろうか。

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