2009.10.19 田中信昭   

船旅の自由帳25〜カナリア諸島/ラスパルマス

横浜を出港してから55日目、丁度半分。クルーズも今日から後半に入った。10月17日夜モロッコのカサブランカを発って、今日10月19日朝、ここカナリア諸島の中心グラン・カナリアのラスパルマスという港町(人口約40万人)に着いた。これからはどちらかと言うと、島めぐりが多くなる。約9日間かけて大西洋を渡った後はキューバからユカタン半島の突端プログレッソという所から、暫くこの船を離れて「ガラパゴス諸島」へのオーバーランドツアーに参加する。その間本船はパナマ運河を通過してエクアドルのマンタに寄港し、その先のペルーのカヤオ(首都リマの近く)で合流することになる。そこからマチュピチュに行き、後はイースター島、タヒチ、サモア等の南太平洋の島々を回って長い帰りのコースに入ることになる。エジプトを離れてからは気温が快適。日本も秋たけなわと言ったところか。

歴史

ラスパルマスの都市の建設は1478年カスティーリャの船長フアン・レホンがこの島を征服しようとした頃に始まり、5年間にわたって先住民グアンチェ族との戦いの後1483年スペイン王国に統合された。サトウキビを中心とした農産物のヨーロッパやアメリカへの輸出で栄えたが(故に)18世紀まで何度も海賊に襲われた。今日では観光業が中心。

移民問題

ここカナリア諸島は「ECの玄関口」と言われる。その意味はアフリカや中南米の国々からまず何とかしてこの国に入り、滞在権を得て後、ECの国へ移っていく、その最初の入り口に当たるということ。中南米のスペイン語圏からの移民はまだしもアフリカの国々からの移民はそれこそ決死の覚悟が必要で、まず国を出るのに多大の金が要り、親戚中のなけなしの金をかき集めてやっと一人分のボート代が出る。危険を冒してようやくの思いでこの国にやってきても、身元が割れると強制送還されるのだという。多くの移民の人たちからなるこの島の人たちの話を直接聞くために、今日は「移民と呼ばれる人たち」との交流会に参加することにした。参加者数15人。熟年層は男性軍たった4人だけ。後はみんな観光に行ってしまった。

「移民と呼ばれる人たち」の話

港から直ぐ落ち着いたきれいな街並みが続く。ヨットハーバーがまるで絵のよう。街の一角に「パティオ・デ・ラス・カルトゥ―ラス」と看板の出た家に入ると、中庭がありここが交流会の場所だそうで10人ばかりの現地の人たちが出迎えてくれた。色んな顔つきの人たちがいる。中にはアンデスの民族衣装を付けてやってきてくれた人もいる。たぶんペルーからの移民なのだろう。早速向こうの人たちからの自分たちの経験談が始まった。

相手は全部スペイン語、当方はピースボートからスペイン語と英語の通訳が付く。今回ピースボートに乗って感心することの一つは通訳。どのツアーにもツアーコンダクターの他に、ほぼ完璧な通訳が添乗する! 同時通訳も何人か居る。前からお伝えしているようにGET(Global English Training)の先生も10人居る。

エクアドルからの移民(女性)の話:大学で働いていたが何カ月も給料支払いなし。止むにやまれず夫が亡くなったのをきっかけに11年前に2人の子供と一緒に移ってきた。自分の場合は肌の色、言葉の点で受け入れられやすく幸せであった。セネガル(アフリカ)の人々の場合は厳しい。小舟で来るので、命の危険もあり、金もかかる。その上この国に着いても強制送還が待っている。

 

ペルーからの移民(民族衣装の女性)の話:滞在許可の書類を入手するためにはこの国で働いた実績が必要。そのためには下働きでも何でもしなければならない。スペイン人の祖父がいるとか、ヨーロッパ系の先祖がいる人は比較的易しい。が多くの人たちは不法移民としてやってきて、いい仕事に着くのは困難。工事現場や農作業の下働きを渡り歩くことになる。

 

別な人:市民権を得るのには政府が変わった時が一つのチャンス、だがこの次はいつか?

3年間スペインに住んでいることで先ず最初の滞在許可が下りる。更に又1年後に書類を出す。

又1年後に書類を出して、やっとその後5年間の滞在許可が入手できるのだという。10年間の滞在実績があって初めて国籍が得られる。しかもオリジナルの国籍を放棄しなければならない。

中南米の人はその点特権があって2年間住むと国籍を獲得できる。しかも元の国籍を捨てなくてよいのだという。

 

ウルグアイからの移民の話:ブラジルとアルゼンチンに挟まれた移民によって作られた国。国民の88%がヨーロッパから来た移民の子孫。逆にこのカナリア出身の人も多い。子供の就学率も高く、いい国なのだが、ブラジルやアルゼンチンの経済不況の影響で、この国も大いなる影響を受け、やむなくこちらに移住してきた。移民になる要因は母国の経済事情か独裁政治だ。

 

PEACE BOAT STAFFのシメルナの話:自分はベネズエラ出身で今ピースボートの報道の仕事を担当しているが、国を出るまで自分が“ブラック”だということは意識しなかった。がこうして他の国に出るようになってそれを感じるようになった。

 

別な人:アフリカに対する差別が確かにある。最近政府は血で国籍を決める政策を取ろうとしている。又、言葉と宗教(カトリック)でアフリカを差別しようとしている。

 

今日のスペイン語通訳ダニエラの話:おじいちゃんがこのカナリア生まれ!その後ベネズエラへ移住。更に親の代に日本に移住。赤ん坊の時から日本で育った。移民の子孫であり、自分も移民だが、小、中、高と日本の学校で日本人と同じように学んだ。しかし日本の社会では顔つきが違う、肌の色が違うというだけでいつも目を付けられる。校長先生から特別に大丈夫かと声をかけられたりした。いじめも受けた。自分の近くの人たちにはいつも一緒に生活しているから受け入れられるが、少し離れた人たちからは未だ受け入れられてないなという気持ちは消えない。「日本人は・・・」と言えば自分から壁を作ってしまうことになる。そんな中でも一番ショックだったのは就職活動の時。面接で「日本人は好きですか?」と聞かれた! びっくりした。しかもそれが新聞社での面接のとき。自分はベネズエラ系日本人で日本食が大好きです、と涙ぐんで暫く絶句した。

 

楽しい昼食

スペイン料理は旨い。それにここはじゃがいもの種類が豊富、魚が豊富、おいしいスープが出てきた、名前を聞いたら“potaje canario(ポタヘ カナリオ)〜カナリア風ポタージュ” その他何でもカナリア風と付く。デザートに甘くておいしい“ムース・デ・ゴフィオ”というものが出てきた。今までに味わったことのないもので表現が難しい。隣に座ったRafaelさんが懸命に説明してくれる。その会話の中で何とこの島に146の国籍の人が住んでいるという!

 

交流

広場での交流会ではサンバを習った。我々は炭坑節を教えた。習字で現地の人の名前を漢字に直して書いてやるのも喜んでもらえた。折り紙に興味を示したサンバの教師に「鶴」を一緒に折ってやった。

コロンブスの家

かのクリストファー・コロンブスが滞在したことがあり、現在、新世界探検の博物館になっている建物があり、中を見学した。サンタマリア号の中を現した実物大の模型があったりしたが、当時使われていた地球儀があるのに気がついた。アメリカ大陸がまだないのは判るが、果たして東の端にある島はジパングだったか否かそれがイマイチはっきりしない。もう一度よく見てくるんだった。もう二度とこの島を訪れることはないだろうが・・

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