2009.10.15 田中信昭   

船旅の自由帳23〜アルハンブラ

10月12日の夜イタリア・チヴィタヴェッキアを出航した船は悪天候領域を避けて、フランスのマルセイユやスペインのバルセロナの沖を回って、イベリア半島の南端の港町マラガに15日の早朝着岸。この間大分揺れた。にわか雨のイタリアの天候と言い地中海はもう少し穏やかだと思っていたが若干荒れ模様。日本を発つ前の当初予定ではマルタによる予定になっていたが途中シンガポールでの遅れを取り戻すため、スケジュール変更されお陰で思いもよらず、今日のアンダルシア地方のツアーに参加できることになった。しかし朝が早い!6時には朝食、7時半バスはグラナダに向けてマラガの街を離れた。

 

アンダルシア

イベリア半島の南側ここアンダルシア地方は元々ケルト人の居住地だったが、古代ローマに追われ、その後ゲルマン人が住み、又モロッコのイスラム支配下にあること260年、さらにキリスト教側が反撃、追われてグラナダに留まりグラナダ王国。又イスラエルを追われたユダヤ人はその後西へ東へと逃げ、西側の行き止まりがここイベリア半島。こうして世にも稀なユダヤーイスラムーキリストの3教文化が共存、融合することとなった。

アルハンブラ宮殿とへネラリフェ宮殿(離宮)

シエラネバダ山脈の雪解け水を引いて太陽の丘と呼ばれる高台に築かれている宮殿とその離宮で、キーワードは(だと解説者の城戸一夫先生はいう) 水はふんだんに造られた泉と噴水、光は南国の強い日射しを殺した薄暗い造り。我々は予め切符が取れずアルハンブラ宮殿には入れないことは判っていたので、入り口に当たる裁きの門から入って、後は壁の周りと、隣のカルロス5世の宮殿、囚われの塔、それに高台にあるヘネラリフェ宮殿への美しい散歩道を昇った。周辺の植物、咲き乱れる花々は日本にもある馴染みのものばかり。アルハンブラ宮殿を見下ろす高台に一段と美しく手入れの行きとどいた庭園があり、それがアセキアの中庭と呼ばれている名所だそうで、大勢の国際的俄かカメラマンに負けないようにカメラアングルを考える。

アルバイシン地区

直ぐ下にある街がアルバイシン地区と呼ばれているが、街路は迷路になっていて、イスラムの攻撃を防止するための方策だったそうだ。これは例えば臼杵の街のように日本の各地(特に城下町)にも見られるもの。ついでながら中庭にあるブドウ棚をカルム(フランス語)といい、女性の名前カルメンはここから来たそうだ。

昼食

今日は勿論スペイン料理。先ず前菜は生ハムとオリーブの酢漬け他。生ハムはさすが本場、少し固めで塩が利いていて美味。パンもうまい。ヨーロッパへ入ってからパンはどこもおいしい。早速ワインを注文、今日は赤にしよう。グラスで2.5ユーロ、何と水もソフトドリンクもビールもみんな同じ値段。ワインがうまくて割安。メインは肉団子の料理だった。まあこんなものか。シェリー酒を飲まなくては!しかしメニューにはない。ここは一番、たとえ片言でもスペイン語は私の出番、とウェイトレスを呼び、「シェリーワイン」などと言ってみるが全く通じない。あ、これは英語だ。スペイン語はヴィノかな?とにかくシェリーというのが全くわからない。あれこれいって、やっと判ったと持ってきたのは強くて甘い食後酒だった。まあこれはこれでなかなかいける。しかしやっぱりみんなシェリーも是非試したいという。とうとう現地ガイドの力を借りてようやく出てきた。さっきの女性になんていうのか聞くと「マンサニーヤ」という。ガイドは「jeres(へレス)」という。彼女は銘柄を言ったのだ。コミュニケーションは難しい。

ジブラルタル海峡通過

船はほぼ予定通りスペイン・マラガを出航、次の寄港地はモロッコのカサブランカ。15日22時頃ジブラルタル海峡を通過。右舷側(船ではstarboard sideという)イギリス領ジブラルタル。左舷側(port side)スペインのセウタ、その先のモロッコ・タンジェの街明かりが見える。海峡のもっとも狭いところは14kmだという。

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