李勺光・李敬のいた風景から抜粋・第1章
                        
渡辺茂樹君の著書から編集者
                                    山川が抜粋したものです


一読して大変面白かったので、著者に了解頂いて、力作の一部を紹介させて頂きました。茶碗にも茶道にも無縁の私が抜粋したのでかなり偏ったものかも知れません。但し、お茶碗の基礎を知る上では参考になると思います。あとは「Yahoo」などで萩焼を検索すると基礎的なことから勉強出来ます。ひとつだけホームページを下記にご紹介しておきます。リンク先にお断りしていませんが、萩の名士である渡辺君に免じてお許し頂けると思います。

http://www.city.hagi.yamaguchi.jp/portal/kau/hagiyaki/html/hy2.htm#top


第一章から抜粋

一井戸二楽三唐津(P22

井戸茶碗という用語は不思議な言葉である。古来、茶人たちは茶陶において高麗井戸茶碗の流れを、萩の茶碗に置いている。例えば、茶人たちがいわゆる「一井戸二楽三唐津」と順じる時、朝鮮系の焼ものを最上のものと評価していたのである。ここで言う「一井戸」は「一萩」と同様の意味を持っていた。喜左衛門井戸は、言うまでもなく高麗ものであって「古萩」ではない。が、海峡を渡って萩に来た陶工たちの作陶に、期待され求められたものは、その井戸であり、「わび・さび」の世界のなかで永らえうる素朴な茶人の、異国の心に叶う焼ものであった。

萩焼の祖、李勺光・李敬の故里を訪ねるための道標として、私はまず<井戸>という言葉の出所を確認しようとした。(P25

<井戸>という言葉が使われはじめる状況や焼かれた場所などについては、すでに述べてきたように諸説あって、具体的にその解答を絞ることの出来ぬままであった。しかしその解答を留保しながらも、この茶碗は時に流れのなかで、井戸としての存在感を確実に主張し続けてきたのである。(P47

李勺光・李敬の銘(P48

そして萩に渡来した陶工たちが、この地で焼いた「古萩」の中で、井戸と称される茶碗への、彼等の自覚的な作陶志向に注目しなければならないだろう。それは高麗井戸茶碗の日本における継承の地域、という歴史的な特異性があるからである。

井戸茶碗に共通する特徴(P50

一、土は荒目で鉄分の強い赤褐色を呈する。

二、土見はわずか高台の畳付部分である。

三、あばら状の轆轤目が目立ち、「ざんぐり」とした感じである。

四、高台は竹節型で、高台内底の中央部分が渦状に高まっている。

五、「カイラギ」という景色が、高台部分やその脇に見られる。

六、釉は長石に木灰や藁灰を混ぜたもので,焼き上がりは失透気味の乳白色であり、
  下地の土色とのかねあいで淡いベージュ色を呈し、枇杷色の肌になることが多い。

七、見込みに重ね焼きの跡が、通常、数個ある。

井戸茶碗の分類(P53

そしてさらに、井戸茶碗としての伝世品を分類すると、次のような四種類に整理されるのが通常である。

一、喜左衛門井戸・筒井筒・細井井戸・有楽井戸などは、大振りで背が高いので「大井戸」あるいは名物手の井戸と言う。喜左衛門井戸や筒井筒はともに、釉薬が高台の内外全体に掛かり枇杷色の淡黄で、萩焼のものと酷似している。

二、忘水・宇治井戸・六地蔵などは、大井戸より小振りで高台が低いので「小井戸」と言う。古井戸とも書くが小の意味の方が正しい。

三、柴田井戸・宝樹庵などは、小井戸に近いが青味のさした肌合いなので「青井戸」と言う。還元炎気味のもので、柴田井戸などは枇杷色を呈している。これは砂入りの土や釉調によって全く萩茶碗と区別がつかない。

四、その他「井戸脇」と呼ばれるものは、カイラギが少なく開いた形の浅手である。井戸より一段下がる脇の意味である。

 一般的に井戸茶碗の形状は、丼椀形で朝顔の花のように開いており、竹節の高台にカイラギの認められるものである。

萩焼のルーツを訪ねるこれまでの展開は、まず<井戸>の語源についての諸説を検討した。これは、それまで伝来していた高麗井戸茶碗の特徴が、萩の土地で当時、渡来陶工の焼いた古萩井戸茶碗と類似しており、朝鮮半島と直結する関連を云々されてきたからである。だが、すでに述べてきたように<井戸>は、日本で派生した言葉であって、あえて結論つけようとするならば、新井白石の説にその信憑性を置かざるを得なかった。また、河東地域とする場所の特定も、安東五氏の塩分含有度に注目しながらも、決定的なものと出来ず、あくまで間接的な想定のままであった。さらに、井戸茶碗の特徴とその分類を整理してみた。日本で<井戸>が受け入れられた状況や時代性を通して、それぞれの要素が「高麗もの」と「古萩」との類似を示しているが、そうした視点からも疑問となって残っていく課題が大きくなるのである。例えば古萩のなかでの、李勺光や李敬自らの焼ものを検証する困難な作業である。このように、井戸茶碗の特徴やその分類など述べてきたが、こうした視点を下敷きにして、李勺光や李敬のイメージを、より具体化する操作も続けなければならないだろう。しかし、李勺光や李敬の古萩井戸茶碗を個別に特定し、それを高麗ものと比較し、その類似をもって、朝鮮半島のある場所を確定する為には、まだまだ不透明な輪郭のままである。(P55

井戸の地の発見(P88

 まさに、この(慶尚南道河東郡)辰橋面白蓮里沙器部落の古窯跡には「井戸茶碗の破片がゴロゴロ」していた。<井戸>の地はここである。一ヶ所で大量に焼かれた井戸の窯は辰橋面白蓮里沙器部落にあった。

 これまで<井戸>の語源については、新井白石の『退私録』および『紳書』における説明をよりどころにして人名説としてきた。そして、吉賀大眉氏の熊川風古萩の検証や安東五氏の胎土の判定などから、この晋州西方、智異山南東麓下の地を<井戸>の故里として想定してきたのである。・・・・私は今、具体的に、ここを井戸の古窯跡として特定する以外にないと実感している。もともと、この<萩焼のルーツ>を訪ねる道標として、萩における初期古窯のものと李朝の高麗茶碗との直接的な関連を調べようとしてきた。萩焼はそうした井戸茶碗を継承したもので、その古萩のなかに、渡来した高麗茶碗の投影を確かめ、陶工たちの故里を捜そうとするものであった。そして先に述べたように、李朝のこの地域では営窯と廃窯の状況があった。文禄・慶長の役が勃発する直前には、すでに昆陽面松田里の窯は廃されており、営窯していたのは辰橋面白蓮里沙器部落である。


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