李勺光・李敬のいた風景
                                        平成十年八月      
 
                                          渡辺茂樹

 
萩焼の起源については、いわゆる「やきもの戦争」と呼ばれる十六世紀末の文禄・慶長の役において、朝鮮より渡来した李勺光・李敬兄弟によってはじめられたというのが定説である。しかしこれにはいろいろな疑問点があり、未解明の課題が多く、今なお謎として据え置かれたままになっている。
 例えば、文禄・慶長の役の何時、如何なる経緯で渡来し、それはどのような陶工集団だったのか、よく解らないままなのである。日本への渡来は俘虜としてか、あるいは技芸を指導する賓客としてなのかも不明である。また、従来、常識視されてきたように李勺光と李敬とは本当に兄弟だったのだろうか。さらに、萩焼の開祖といわれる李勺光は間違いなく「技芸ある朝鮮人」陶工だったと言い切れるのだろうか。
 九州の上野(あがの)・高取・八代・薩摩らの諸窯は、同じ文禄・慶長の役のおり朝鮮から渡来した陶工の集団でありながら、それぞれの出身地・系譜、その時の事情などが比較的明確である。それに比べ、萩焼の起源を物語る史料は少なく、限られたものからの類推に依存しているのが実情である。そして江戸時代を通じ、萩・毛利藩の御用窯として継承発展する過程もまた謎めいており、そのことは萩焼の起源について新しい視点での推考の展開を必要としている。
 郷土史研究家 山本勉弥氏はその著「萩の陶磁器」のなかで李勺光・李敬について、次のように述べている。同書は萩焼の起源についての実証的な労作で、氏は山口県大津郡湯本近郊、三之瀬にある「俊寛僧都之墓」と伝えられる三輪墓(五輪?)を訪ね、これが李勺光の墓だと類推する。
 

 萩焼の開祖で、萩陶業界の大功労者である李勺光の没年享寿が、伝えられていないのは不思議である.坂家の伝書には「兄其名不知」とさえ書いてある。これは勺光の最後は普通の病死とちがって何かの異変があり、その没時に関する事実を、一族が秘するような関係があったのではないかと思う。
 李敬は、おそらく穏健な人物であり、その余徳として、今日まで家系が立派に伝わっている。李勺光は気荒な性質ではなかったろうか。李敬はすでに、平和になった時代に晏如として萩に迎えられたが、李勺光は虜囚として内地に伴われ、住所は・・・・・
 

 と、李勺光の最期を精神的な病気によることを匂わせ,その子松庵のエピソードとして、囲碁の争いから毛利藩士渡辺常を殺害したことをあげ、これは気質の遺伝であり李勺光の性質もその通りだったであろうと推定している。しかし、その「没時に関する事実を、一族が秘するような関係」を前提としながら、私なりにあらためて、考察を進めてみたいのである。
 山本氏の「萩の陶磁器」は、萩の焼ものを研究するうえで必読の文献である。そのほかにも、多くの方々がいろいろな形で萩焼についてまとまられているが大抵の場合、同書を踏まえながらも、この枠域を出きらず、それぞれ独自の視点からの展望を持つものは少ないようである。
 私の萩焼のルーツさがしは、そうした文献や史料そのものと、類推によってふくらんだ部分とを、区別・確認しながら、私なりの推考を展開してみたい。できれば「古萩」そのものからの感性による推測も大切にしたいし、特に朝鮮の資料や李朝宣祖の時代「壬辰和乱」(日本では文禄・慶長の役)の史料を重視したいと思う。
 私は決して史学の専門家ではないし、ただ本を読むのが好きな、萩焼のルーツに興味を持っている者である。私の中の李勺光・李敬像は文献や史料のなかから、徐々にその枠をせばめ、輪郭を隈取りはじめたものである。そこで今一度、書き残されたものや、口伝、「古萩」という焼もの、伝統技法、資料などを順次検証し、李勺光・李敬像をより明確にしてみたい。私の中の仮説は途中で横道にそれるかもしれないし、あるいは消え去ってしまうかもしれない。ただ、萩焼について史的に認められる確かな部分と、自由な想像を許される詩的な領域とを知るに終ってしまうかもしれない。しかし、私の中の仮説を追究する過程では、より密度濃く、より振幅をひろげたものでありたいと思う。
 
 
萩焼のルーツを訪ねて本書では「史料ドキュメント」といったものを展開する際、まず三つの仮説を想定した。
 仮説T:萩焼の故里・井戸茶碗の窯跡は、韓国智異山南東麓下の慶尚南道河東郡辰橋面白白蓮里
       、山清郡丹城面雲里 あるいは泗川郡昆陽面松田里の古窯跡か?
 仮説U:李敬は、敬(編集者注:正式な文字は王偏に旁が敬)の名を継いだ李永寿か?
 仮説V:李勺光と李光岳とは、同一人物か?

 このような仮説をたて、
文献や参考資料などを引用・検討しながら、推考し、李勺光・李敬の謎に迫るつもりである。果たして私の仮説が証明されるかどうか、その道程をたどりながら折々の、いわば知的アドベンチャー(?)といったものを楽しみたいと思う。


以上はこの本の前書きである。これでも随分長いのだが、これだけでは興味のある方には極めて不親切である。本書は大変面白いのだが膨大な研究なので、著者にお願いして一部抜粋を後日掲載したいと思う。
                                                   編集者・山川正彦

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