メメント・モリ
                                                  打越敏之

 過日ウイーンで国際学会があった折りに、街の中央にそびえるシュテファン寺院のカタコンペ(地下墓地)を見学した。累々とつみあげられた骸骨の山をみて、先生に引率された地元の学童の一団がウエーッとかヒヤ-とか声をあげていた。人は動物の肉体をもって生まれ、生存のためやむをえず鳥獣魚肉を食し、数十年でその生を終える、さほど高等でもない生き物であることを、身をもって体験させる幼児教育であろう。人の生ははかなく、常に死と向いあって生きなければならない。「メメント・メモリ」(Momento Mori死を忘れるなかれ)は、ペストの大流行でおびただしい人々が死んでいった中世以来、ヨーロッパの人々に滲みついた人生訓である。ヨーロッパには教会をはじめ街のあちこちに髑髏や磔刑のレリーフや病める人や死にゆく人々の彫刻や絵画がみられ、死は日常生活のいたるところにみられる。また市場では鳥や兎の肉が、皮をはがされたまま吊るされ、人々はそれに触れたり匂いをかいだり吟味してから買ってゆく。日本では最近こういう光景は全く見られなくなったように思う。
 日本人は本来優しい心情を持ち、清潔好きな農耕民族であり、生臭いものやおぞましきものから、極力身を避けようとする慣習がある。死は、それを扱う専門家である医師や看護婦、葬儀屋、僧侶の手にゆだね直面しようとしない。永くつづいた平和と経済成長によるゆとりは、生活の華美や装飾過多を好み現実の生身の体から遠ざかる一方である。
 近頃の若い人々の脳死や臓器移植の議論を聴いていると、ほとんど具体的な身体の病や身近な死を体験せずに、マス・メデイアから得た情報の反復や抽象的・観念的な理屈に終始し、むなしい思いがする。戦争や飢餓によって毎日何千も何万もの腐りゆく人体があるのが今の世界の現実である。
 具体性のない「死」は、想像の世界で翼をひろげ、いたずらに終末意識を助長する。臨死体験、超常現象、オカルトなど、刺激のつよいものがもてはやされ、パニック幻想がはびこる。弱肉強食という食物連鎖、人と物との距離、人の生と死の距離などを、常々考えていなければ、等身大の人間を見ることが出来なくなる。我々は太平洋戦争の敗北でこりて、国家への忠誠を棄ててしまい、終戦以来今日まで「人を越えた原理」に律せられることはなかった。さらに神という「人を越えた原理」にも疎遠であった日本人は、平和と繁栄のなかで快適さのみをひたすら勤勉に追求して来た。その結果は、優しいようで何も手を下そうとしない、残酷でどうしようもない国民になりつつあるのではないだろうか。
 もう少し生身の身体に近づいてみて、刻々と腐敗していく人間という卑小な存在から出発し、人を越えた絶対的なものに想いをいたすことが必要なのではないか。死は平等に万人の上にくるのであり、「メメント・モリ」は他人事ではない。よく地球は滅びかけているという人がいるが、人が滅びかけているのであり、地球は変わりなく生生流転を続けると思う。明るく楽しく生きたいのはやまやまであるが、死や絶対者への考察は避けて通ることの出来ない教育の原点ではないだろうか。哲学の貧困を痛感する。
                                    教育界への提言 1993年3月(週刊教育資料)
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