大連物語] その五

                                                     松橋二郎

 昨今の日本経済は長かったデフレスパイラルにようやく終止符を打ち、反転の兆しが出始めたとの見解が一般的である。その動きの最大の要因として中国特需ともいうべき対中貿易の増大が挙げられている。台湾、香港を含む中華圏、いわゆるドラゴンスリーとの輸出入合計が対米貿易総額を凌駕するに至ったというのである。このことは、わたしたちの生活の諸分野においても功罪相半ばするという側面を持つが、誰しも実感していることである。

アメリカに並んで中国の金利引き上げの観測がつたえられると、株式市場は直ちに下げに転じる等の現象に見られるように、日中関係は以前とは異なり、社会体制の相違や過去の歴史問題に根拠を持つ政治関係よりも経済関係の帰趨を重要視するように変質してしまったように映る。小泉首相の靖国神社参拝に関する言動に代表される言説の根底には、中国は今や経済第一を国是とする経済国家であり、政治関係に多少の摩擦が生じても日中関係に齟齬をきたすことはないと楽観視している向きがあるように思える。韓国をはじめとする東アジア諸国に対しても同様のスタンスが見受けられる。しかし、日本の将来に思いを巡らすとき、果たしてこれで良いのだろうかという疑念がわたしには浮かんでくる。

戦犯を合祀する靖国神社参拝は古来より伝承された日本固有の文化に基づくものであるから、他国にとやかく非難される筋合いはない。戦犯といえども一命を賭して現在の日本国の繁栄の礎を作ってくれた事実は他の合祀者となんら変わりはなく、感謝と敬意の念を表明してどこが悪いのか。こういったところが論拠のようである。

 ここでは、その正否を詳しく論じるつもりはない。靖国神社の設立はさほど古くはなく明治以降の軍国政策の一環として建立されたたかだか百年余の歴史を持つ神社であり、合祀に至っては更に新しく50年にも満たぬ歴史しかない。昭和天皇も合祀を不快とし、従前続けてきた参拝を取りやめ、生涯参拝されなかつたとのことである。非難をかわすために8月15日の参拝を数日ずらしたり、正月に参拝したりして日本固有の文化に根ざすものだと強弁するに至ってはいささか無理なこじつけとしか言えない。正月の神社参拝はわたしも時折行い、いわば日本固有文化といってもよいある種の習俗であるが、靖国神社への参拝とは似て非なるものである。

 そもそも、文化とは碩学者の言を借りれば、「人と人を結ぶ見えない絆」の謂である。

 話は変わるが、昨年の9月、大阪のリフォーム会社一行、数百人が珠海で集団買春行為をして、中央政府のスポークスマンが異例の非難発言をしたことがあった。日本のマスコミも大きく取り上げていたから諸兄姉の記憶に新しいのではないかと思う。この行為と小泉首相の靖国に関するコメントが同質、同レベルの次元のものであると言えば、諸兄姉は納得されるでしょうか。わたしにはそのように映るのである。

 日中戦争が日本による中国国土での侵略戦争であったことは論を俟たない。中国国民の生命、財産、国土等に多大の被害を与えたことは言うまでもない。この史実の徹底的総括が日本で為されず、曖昧な総括に終わったことが現在の歴史認識問題として往々にして浮上し、政治摩擦の連鎖となっているのである。曖昧な総括とは、一言で言えば、被害者の心の奥深くまでとどく加害者としての認識の欠如である。この点が同じくヨーロッパ全域で大きな爪痕を残したナチスドイツの場合と決定的に異なっている。ドイツではワイツゼッカー大統領演説に明らかなように過去の加害行為を真摯に謝罪し、将来にわたっての過去との断絶を国際社会に宣言しているのである。

 小泉首相の言説には自国の繁栄という言葉はあっても、侵略を受けた中国に対する言及はない。自国の繁栄ということは抽象のレベルを上げれば「欲望」の実現ということであり、自己言及的言辞であり、そこには一切、他者の存在はない。即ち、素朴な実体論者としての言説にとどまり、国と国との関係を論じるのに不可欠な関係概念が著しく欠如しているが故に、説得力を持たないのである。

 珠海事件は昨年の9月15〜16日に起こった事件である。かいつまんで概要を記そう。

前記リフォーム会社社員と取引先一行は、中国側ホテル幹部と旅行代理店職員に命じて、宿泊ホテルに性的接客要員として、約500人の女性を集めさせて集団買春に及んだという事件である。斡旋した職員たちは、その後の裁判を経てホテル女性幹部は死刑、他の関与者は最長20年に及ぶ懲役刑に処せられた。

珠海は近年、日本企業をはじめ世界各国から企業進出が相次ぎ、人口百万人を超えるに至った新興工業都市である。中国の実情から言えば、そのような地域には必ず進出企業関係者相手の遊興施設が澎湃として誕生する。

女性たちは大部分、豊かになりたいという夢を抱いて珠海にきた内陸部農村出身者である。故郷での月収より一夜の相手の報酬の方が多額になるという現実に直面したとき、彼女たちの倫理は音を立てて崩れ去ったに違いない。その間の事情に鑑み、一行の行為は需要と供給に基づく経済行為に過ぎず、大声で論じる問題ではないといつた言説は、わたしの周辺でも少なからず聞こえてきた。故郷にも多額の送金が出来るではないかとも言う。

 もうひとつのこと、9月15〜16日について記そう。

 9月18日は、現在の瀋陽郊外にある柳条溝での関東軍による列車爆破事件が起こった日である。その日は、かつて日本軍に国土を蹂躙された屈辱を想起するための特別な記念日となっており、当日、正午を期して瀋陽市内全域にわたりサイレンが鳴り響き、車は一斉に停車し、歩行者も直立不動の姿勢をとりしばし黙祷をささげることが今も続いている。他の都市の実際は知らないが、記念日のこと自体は、わたしの知る中国人全員が知っていることである。よりによって、その前夜とも言うべき日に珠海事件は起こったのである。後日、わたしがこの事件について話した中国人は一様に複雑な表情を浮かべていた。わたしに対して、日本人を非難してもよいのだろうかという躊躇、同じ国民としてプライドを傷つけられたという想い、そのような複雑な思いが交錯していたのだろう。ここでも一行の視野の中には、自分の欲望充足のみが存在し、相手となる女性は単なる性的対象物としか映らない。AさんでもBさんでもどちらでもよい、いわば置換可能な存在であり、外的表象では窺い知ることが出来ない内心を持つ、ひとりの人間としての存在は映らない。即ち、他者の不在である。

 この意味で小泉首相の言動とリフォーム会社一行の言動は、他者不在という状況のもとでの自己言及的事象という点で通底するのであり、人と人、国と国の関係では欠かすことの出来ない関係概念に立脚した目配りの利いたものとは到底いえない低レベルのものである。

 中国は歴史的に概観してもとりわけ面子を重視するお国柄である。行過ぎて唯我独尊的な中華思想に走った時期もあったが、矜持高い国民性は今も連綿として受け継がれている。

日中戦争の記憶を風化させないために随所に存在する記念館は、同時に建国の歴史的苦難の証左としても位置づけられ、そこへの訪問学習は歴史教育の必需課程として組み込まれている。わたしも機会があれば訪問見学することにしているが、直視するに耐えられない写真等が縷々展示されており、息苦しい想いである。わたしにしてそうであるから、被害者である中国国民、とりわけ感受性豊かな子供にとっては終生忘れられない体験となるであろうことは想像に難くない。わたしは、このような施設を中国東北部のいくつかぐらいしか知らないが、おそらく中国全土に存在するのであろう。

 昨秋、西安大学日本人留学生の愚行に端を発した日本人および日本産商品の排斥運動もこのような素地の存在なしには考えられない。尖閣島上陸問題に見られる過激なナショナリズムの発揚が歴史的事実の検証抜きに一定の支持を集めるのも無関係ではなかろう。

  昨今の日本でも北朝鮮問題に端を発するナショナリズムが台頭してきている。北朝鮮でも然り、中国、アメリカ、イラク、パレスチナ等々でも然り、あたかも世界中がそれぞれのナショナリズムに染めつくされているかの観である。そのすべてを同一に論じる訳にはゆかないが、そのいずれにも懸案を解決できそうな道筋が見えないことでは共通している。

 政治の世界でナショナリズムが声高に唱えられる事態は今に始まったことではないが、これほどまでグローバルになっているということは、冷戦構造の崩壊後、目指すべき世界の消滅という事態と無関係ではないように思われる。しかし、グレン・フクシマが唱えるようなヘーゲル流の「歴史の終焉」というものでもさらさらない。

 もとより浅学非才のわたしにとって世界はどこに向っているのかといった問題は手に負えない問題である。ただ、わたしにはある方向性の彼方にその解決が存在するのではというかすかな予感がある。

 それは、25ヶ国からなるヨーロッパ共同体、ユーロの誕生に見られる国家を超えた形態の出現である。もとよりユーロは政治理念と無関係のものではないが、共同化の指向の背後には、そうしないと世界経済戦争の中で単一国家として十全に生存して行けないという切実な現実が存在している。さらにはロシアやイスラム国家群に対する潜在的恐怖感も作用しているのかも知れない。アメリカを盟主とするNAFTA(北米自由貿易協定)に見られるように地域経済共同体が誕生している現状に鑑みれば、一国経済をもって立ち向かうことはもはや至難の業と化しつつある。

日本とてもその例外ではない。かっての大東亜共栄圏の悪夢が記憶にあるから、日本のスタンスには種々の問題を孕むが、日本にとっても東アジア共同体の成立なくして発展して行く道は残されていないと断言してもいいかと思う。ユーロを形成する諸国家のようにキリスト教、白人、民主主義体制といった共通基盤を持つ訳ではなく、況やアメリカのように複数民族を民主主義という理念で束ねたレーゾンデートルさえ事欠く東アジア諸国にとって、その課題は取り組む前に解決不可能といった感さえする。しかし、その成就以外に日本が生き残る道はないように映る。

 ASEANの取り込みという点では、中国の方が先行しているかの感があるが、政治体制の違いという大きな問題が横たわっており、中国を盟主とする共同化が一気に進むとは思えない。そこでは日本の存在が韓国と並んで肯定的存在を占める。日韓の経済共同体への動きはすでに始まっている。その進行の裏には、両国間の共通事情として、いずれも高度工業国としての利害が一致するという事実が挙げられる。東アジア全域に舞台を広げるとき、それぞれの産業発展レベルの相違、とりわけ農業に絡む諸問題が大きな障害として登場してくる。この間の事情は日中共通であるが、中国は国内農業に打撃を受けることをあえて甘受して自国経済全体の発展を目指す政策を打ち出している。中国の国益という観点からすれば、農業問題は国内問題として別途解決してゆこうというのである。この点からいえば、日本政府の対応は百歩も千歩も立ち遅れているとの感は否めない。 しかし、東アジア共同体の形成を経ずして、他の経済ブロックに対抗しうる術はない。

その成立には、偏狭なナショナリズムの介在する余地はない。古来より、日本は異文化を吸収、同化することで発展の節目を作ってきた。他国との平和的共存に基づく自国の発展という課題に対し、われわれは何をなすべきであり、何をなさざるべきか、このような設問に対し、関係諸国にも説得力ある理念および方策を示すことが出来たとき、日本の繁栄は約束され、その成功は荒ぶる世界に対しても到達すべきひとつのモデルとして発信されることになろう。

 話が「大連」から大きく逸脱してしまったが、これもひとえに中国の現実の一端を垣間見て、翻って日本の現状を見るとき、確実に興隆する中国と没落の道を辿るかに見える日本という対比が脳裏に浮かんでくるが故の繰言である。ご寛恕願いたい。

 わたしも徒に馬齢を重ねて、英国に帰化した日本人作家、K.ISHIGUROの名著

「THE REMAINS OF THE DAY」(邦訳名:日の名残り)の世界が実感できる年頃となった。願わくば、残り少なくなった日々を、混沌の坩堝、中国の地に立ち、その地で人生を信じて真摯に生きている中国の青年たちと、共に分かち合って過ごして行きたい、とわたしは考えている。その所為は、さまざまな可能性を前にしてうち震えていた大手前時代以降、試行錯誤の連続の軌跡を重ねてきたわたしの人生、わたしたちが生きてきた時代、社会への挽歌である。わたしは今、そう思っているのである。

 

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