大連物語] その四

                                                     松橋二郎

 18時

  ホテルに劉さん、羅さんが迎えに来る。今夜は彼らが一席設けてくれるというのである。ふたりは割り箸加工工場のいわば社長と副社長である。わたしが輸入する割り箸全量、彼らの工場の生産品である。劉さんは33歳、羅さんは32歳。劉さんは牡丹江出身、ハルビンで大学を終え、故郷牡丹江の国営貿易公司に就職したが、26歳で独立、現在の割り箸工場を起業した。持ち前の行動力で創業7年にして従業員60人余を擁する大連でも中堅に目される工場に育て上げたベンチャー精神豊かな少壮経営者である。羅さんは大連から遠く離れたシルクロードの中心都市ウルムチ出身。大連外語学院(大学)日本語科を卒業、旅行代理店勤務を経て劉さんの会社にスカウトされた。多くを語らないが、日本人観光客の不躾な要求に嫌気がさして転職したそうである。流暢な日本語を駆使するので意思の疎通に事欠くことはまったくない。ただ彼の日本語は取引先のすべて、といってもわたしも含めて二社であるが、両方とも関西にあるので、関西弁ベースの日本語になる。

 劉さんは最近、中山路に面した大連でも屈指の一等地の新築ビルに事務所を開設した。大阪でいえば御堂筋にあたる立地であり、相当な購入費用がかかったはずである。これは劉さんの念願の夢であったらしい。入居テナントは当地でも相当有力な企業ばかりであり、わたしぐらいの年配の者から見れば時期尚早の感もするが、彼らにとってみればインセンティブになるのだろう。

 工場設備の整備についても積極的であり、わたしも資金応援する形で新鋭機械も導入した。大連には約300社近い割り箸生産工場があるが、設備面でいえば上位20社にランクされる生産ラインを確立している。わたしの当分野における狙いは高付加価値製品の輸入であるので利害は一致するのだが、ラインの操業度アップの点からいえば、新規発注の増大という圧力が生じるのは当然であり、痛し痒しの面もある。原材料の供給面でも若いエネルギーを縦横に駆使して、新しい供給先の確保に努めて、中国国内では内蒙古地域を中心とする原材料調達ルートを作り上げた。国外ではロシアまで足を運んでいる。両地とも材質の良い原材料を産出するが、半製品加工技術に問題がある。ちなみに割り箸加工にあっては、原材料とは半製品を意味し、大連は一大集散地であり、最終工程ならびに輸出を行っている。

  特にロシア産のものは品質面で問題が多いらしい。半製品といっても産地で選別してあるレベル以上のもののみ大連に送り込むのだが、ロシア産はここがなってないらしい。劉さんに言わせれば、そもそも彼らには品質管理の観点が皆目欠如している。現地に赴き、口酸っぱく指導してもそのときだけ。現地を離れれば元の木阿弥の製品を送り込んでくる。半分も使えないとのことである。選別ランクは5段階あり、上位3段階は日本向けに、下位2段階は韓国、国内向けに振り向けるのだが、それにも合格しないものが相当生じる。劉さんは真顔で言う<ロシアの労働者は社会主義的な考えだからどうしょうもない>。ちょっと待てよ、社会主義は中国であって、いまやロシアはそうではないはず。ふんふんと聞いているが可笑しくなって笑い出してしまう。しかし、劉さんは真剣である。劉さんにとって社会主義とは無責任体制と同義語である。そこそこの教育レベルの劉さんにして社会主義体制とはこのように映っているのである。

  しかし、劉さんはロシアルートを放り出したりしないと言う。中国でも環境問題に関する意識が高まってきて、木材資源に関して種々の規制が現実化し始めている。即ち、山林伐採の制限ないし禁止である。いずれ原材料調達には隘路が生じてくる。その日がくるのはそう遠くではない。そのときに備えてロシアルートの確保は重要な意味がある。辛抱強く現地と付き合っていかな ければならないと劉さんは考えているのである。

  さて夕食である。劉さんは幼馴染の友人も交えていいかと言う。もとより依存はない。わたしもプライベート通訳に使う張楊を誘っている。張楊は25歳の海運会社のOL。羅さんの大学の後輩に当たり、わたしの割り箸ビジネスの取引先開拓の際、前勤務会社時代(前出雪龍産業)で担当としてわたしの水先案内をしてくれた才色兼備のOLである。転職後もつき合いが続いており、今や双方の家族ぐるみの付き合いとなつている。

 彼女は、大連市政府で要職にある父親と専業主婦の母親との三人暮らしである。父親はいわゆる文化大革命世代であり、下放(当時、都市から農村に革命工作と称して学生達が送り込まれた。このことを謂う。)経験者であるが、間一髪の機縁で大連に戻ることができ、再開された大学に入れたそうである。小学校時代、何故か日本語クラスがあり、そこで1、2年間学び、後は独学で日本語を身につけたという。蔵書を見せてもらうとほとんど戦前の本である。わたしとの会話にはなんの支障もない。それどころか博覧強記というか些末なことにまで知識が及んでいる。京都南部地域には伏見稲荷という神社がありそこには信者から寄贈された無数の赤鳥居がある・・・なんていう話がさりげなくはさまれる。日本に足を踏み入れたことなど一度もないのに。それらに共通しているのはいずれも活字から得られた知識という属性である。かたや、熱心な毛沢東主義者でもあるおそらく毛沢東の全著作、ほとんどの伝記に関する著作を読破したのではないかと思われる節がある。つまり、話題がどんな方向にむかってもたちどころに返答が返ってくる

この手の話題は、奥さんや娘は一顧だにせず、また言っていると無視されるそうであるそこへ話し相手としてわたしが登場してきたものだから、張楊の言によると、大変喜んでわたしの訪問を心待ちにいるそうである。奥さんは、中国では珍しい専業主婦。いつもにこにこ笑っている料理上手、もてなし上手の女性である。訪連時には必ずお邪魔して彼女の手料理をいただくのが通例となっている。ただ、その時の会話は当然日本語、彼女だけが蚊帳の外状態で心苦しいが、よくしたもので彼女は次々に用意する料理づくりに忙しく、時折目を合わせてにこっとする程度でなんとなくコミュニケーションが成り立っている。

 さて、夕食である。同席者は劉さん、羅さん、張楊、わたし以外に三人。劉さんの幼馴染ふたりとそのうちのひとりの知り合いという日本人である。いずれも年のころは30代の青年たちである。幼馴染というKさんは東京で電設関係の会社社長である。もうひとりの日本人は空調関係の会社社長であり、Kさんの仕事仲間だという。Kさんは元来、生粋の中国人だが、ハルビンの大学時代の同級生と結婚のため来日し、日本に帰化したそうである。奥さんとなった同級生はいわゆる中国残留孤児の子弟に当たり、母親の帰国に合わせて訪日した。大学まで進学しているのだから、残留孤児の家庭といってもあるレベル以上の恵まれた環境にあったものと思われる。Kさんは奥さんに惹かれて日本までやってきたが、母親にして今浦島といったところで、Kさんはじめ他の者にとっては、言葉ひとつ通じない正真正銘の外国であったという。一家は所沢にあった政府の用意した帰国子女向けの訓練施設で日本社会に復帰あるいは順応してゆく学習をしたそうである。

その後、Kさんは電設関係の会社に勤務したが、5年後には小さいながらも自分の会社を創業した。この点は、劉さんの軌跡とほぼ同様である。現在の年齢は35歳だそうだ。本人から説明されなかったら、到底、帰化日本人とはわからない。言葉ひとつとってもネィティブ日本人との見分けはつかない。物腰というか雰囲気も日本人そのものである。それも折り目正しい好感のもてるものである。

 Kさん達は短い休暇をKさんの故郷訪問で過ごすために訪中し、経由地大連にて幼馴染の劉さん達との慌ただしい邂逅を果たしていたのである。 名刺交換をして、帰国後、わたしに関係ある店舗設計施工会社を紹介することにする。わたしの人脈はこのような偶然から生じたものが多い。これもなんらかの機縁である。 そもそも劉さんとの出会いも似たようなものである。その出会いを作ってくれたのは潘さんという、劉さんと同年輩のひとである。潘さんは大連で知り合った某百貨店の現地法人総経理の紹介で知己となった。潘さんは長春の大学卒業後、大阪府立大学工学部に留学、卒業後、日本の中小企業に就職、大連事務所長となった。大連の若いひとがもっとも憧れるケースである。給料は月額25万円。事務所経費は別途である。もちろん車両もある。年収300万円は日本ではどちらかというと低所得になるが、大連では大変な額である。荒っぽく換算すれば日本での1000〜3000万円に相当する。奇妙な換算だが、食材などの生活物資購入面から見れば、3000万円相当。パソコン等の高度工業製品購入費用等を中心に考えれば、1000万円。これが実感換算額である。

潘さんの仕事の中身は、以前は陶磁器の輸入販売にともなう現地業務であったが、納入先が前記某百貨店グループ一本被りであったため、某百貨店倒産で事情が様変わりした。商材発掘がメインの仕事となったが、なかなかうまく行かないそうだ。そんな折しもわたしと出合ったのである。そして劉さんを引き合わせてくれたのである。いわば商売上の恩人であるが、今は接触はない。ちょっとした問題の処理をめぐり見解の相違が生じた。また近いうちに旧交復活という場面になるのかも知れない。

 余談だが、彼の大阪府大時代、大手前の同級生である中西三郎さんの講義を聞いたことがあるらしい。高分子化学専攻であったらしいが、中西さんは覚えていますか・・。話の様子から伺うに、友人たちは食事後、大連の巷に流れてゆくらしい。大連にはカラオケと呼ばれるホステスのはべる場所が主として日本人対象の店として数十軒ある。旅行客相手だとひとり3000円ポッキリでOKとおしなべて謳っているが、実際は少しオーバーするらしい。しかし、たいした金額でなく、明朗会計といってもよい。わたしも何度か案内された経験があるが、個人的にいえばあまり面白くない。歌は不得手、酒は下戸というわたしから見れば、居心地の良い場所とは言いかねる。わたしの取引先は必ず一度はわたしを案内するが、大抵、それで終わりということになる。わたしがさほど喜ばないということがすぐにわかるからである。彼らとてもたまに行くならともかくいつもいつも喜んで案内している訳ではない。以前に記したことのある金さんの心境に近いものは全員に共通している。日本人取引先の行動はそれと告げられることはないが、常に中国側の大きな意味での監視下にあるといっても過言ではない。我々の滞在期間中事故や危険に遭わないよう、それとなく気配りしてくれているのである。したがって、このような夜の遊興場所での単独行動は彼らから見れば歓迎できないことになる。

 しかし、他に娯楽施設があるかといえば、日本のように多彩ではない。ホテルに引き上げる以外に手はない。若者向けには、近時、ディスコや正真正銘、歌を唄うだけのカラオケも誕生し始めたが、まだ一般的ではない。コーヒー主体のいわゆる喫茶店文化も広がりつつあるが、まだ先端文化の感は否めない。娯楽面でのインフラ整備は始まったばかりである。インターネット喫茶も見られるようになったが、そこに出入りするだけで、一般家庭にあっては不良呼ばわりされるのが実際である。劉さんの友人たちとはレストランで別れ、ホテルに送ってもらう。張楊はタクシーで帰ってもらう。張楊のように両親と一緒に暮らしている娘は大抵、門限がある。更には随時、家に電話を入れることが普通である。連絡を忘れていると親から電話が入り、安否を問われることもある。横で眺めているとなんでここまでという想いもしないではないが、当人たちは抵抗感を抱きつつも価値観としては概ね受け入れているように映る。

 余談だが、翌朝、わたしが朝食をとり終えロッジタイプの別棟の自室に引き上げようとしたとき、タクシーから降り立つかの友人たち一行と鉢合わせした。時刻は朝7時過、なんのことはない、朝帰りなのである。三人とも照れくさそうな顔つきであった。蛇の道はなんとやらで、わたしなぞでは分からない遊び場所があるらしい。

 大連でのわたしの一日はこのようなものである。

 

inserted by FC2 system