大連物語] その二

                                                     松橋二郎

 [大連]という響きを耳にしたとき、あなたにはどのようなイメージが浮かび上がってきますか。わたしの場合は、まず敬愛する清岡卓行の「アカシアの大連」。続いて学生時代口ずさんだ「北帰行」。「旅順」。「203高地」。「乃木大将」。旅順の城は滅ぶとも・・・の与謝野晶子「君死に給うことなかれ」。こんなところである。

中国の数多い都市の中でも「大連」という響きは特に豊かにさまざまなイメージを喚起するように思われる。そして、そのイメージに付随してそのひと固有の濃密な記憶も甦ってくる。わたしの場合は、清岡卓行の「アカシアの大連」に媒介された、二年間で終わってしまった京大の学生時代の記憶である。部落開放運動と安保闘争。短い学生生活の殆んどの期間、殆んどのエネルギーをこれらの運動に費やした。この頃、清岡卓行の「氷った焔」に出会った。政治運動の無機的な世界に疲れきったわたしにとってその詩集は甘美な癒しのひとときを与えてくれる至福の存在であった。今は手元にない。友人の宇佐美君に熱望されて譲った。彼は京大人文科研教授であり和辻賞をもらった文学者である。清岡卓行氏とも親交があり所望したが、ご当人の手元にも一冊しかないとのこと。偶然、わたしの書斎で見つけて強奪していったのだった。

 しかし、追憶の世界に浸ってばかりいられない。歴史的に見れば、日清戦争、日露戦争を経て満州国建国、日中戦争そして敗戦、現在に至るという負の史実がある。光と影。わたしは大連でいろいろなひとと交歓するとき、私たちにとっての「光と影」は、中国のひとにとっては「影と光」に反転することを常に意識しながら接することを心がけている。

 大連は遼東半島の最南端に位置し、遼寧省に属する。遼寧省、吉林省、黒龍江省を総称して中国東北部と呼ばれる。旧満州国と一致する。中国では旧満州国というのはなんとか許されるが、満州とか満州国というのは絶対に許されない。その国名は日本帝国主義時代の忌むべき呼称であり、彼らにとってはまさしく影なのである。

 諸兄姉が大連の土を初めて踏めばきっと驚かれるに違いない。眼前にするのは美麗にして洗練されたたおやかな現代都市大連だからである。特にここ10年ほどの変貌には驚嘆すべきものがある。まさしく日進月歩の世界であり、主要道路には捨てられた吸殻すら見られない清潔な都市に変わっているのである。近代建築と整然とした道路網をかしましく車が交錯する。さらに市街のここかしこでは再開発の槌音が響き、旬日を経ずして新光景に転化する。夜ともなれば、光彩きらめくネオンサインのオンパレードである。殆んどが旺盛な大連市民の胃袋を癒すレストランである。それも巨大レストランが多い。一店千平方米規模クラスは珍しくない。外食産業間の競争もまことに熾烈であり、昨年のSARS騒ぎもものかわどんどん新規開店が続いている。主要道路には両脇に大連市花アカシアを模した街灯が煌々と続く。まさに不夜城の観である。

 このような都市近代化が急速に進んだのには、前市長にして現遼寧省長である薄氏の存在が大きい。薄氏はとにかく有言実行の人であり、大連市民、特にご婦人連に絶大な人気がある。いわゆるイケメンの偉丈夫であり、太子組(共産党幹部の子弟)でもある。市長から省長へ抜擢されたときには留任を請う多数のご婦人連が市庁に殺到し、本当に号泣したという話は人口に膾炙している有名な話である。昨年のSARS騒動の際には、2名の発症直後、全省挙げての徹底対策を大号令、省内にひとりでも患者が出れば即刻辞任すると啖呵を切り、事実、抑えきった。また一段と評価が上がった。

 市長時代には徹底して大連に外国企業の誘致を図り、日韓企業を中心とする一大工業団地を作った。大連経済技術開発区である。進出企業は2000社とも3000社とも聞く。企業誘致のみならず、東北三省産品の出口として大連港を擁する利点を生かし、国際貿易の拡大に尽力。その政策は現市長にも引き継がれ、巨大なIT産業の確立が目下進行中である。

 これらの産業振興と表裏一体の事業として都市近代化政策を並行進行させ、吸殻の見当たらない市街が誕生したのである。道端にタバコを捨てる不心得者が皆無なのではない。捨てても捨ててもいち早く掃除して行く手厚いクリーンシステムが見事に作動しているのである。厳寒の季節にあっても黙々と作業に勤しむ掃除婦の姿が随所に散見される。これもひとえに遠くユーロまで視野に入れた、国際貿易港湾都市として世界にはばたこうとする壮大な構想のインフラ整備の一環なのである。このような市街の中でひとびとはどのような営為をしているのであろうか。その片鱗をわたしが過ごす大連でのある日の軌跡を辿ることから垣間見ることにしよう。

 某月某日

 朝7時

わたしはホテルの一室で目を覚ます。フラマ南山ガーデンホテルD5321室。(大連単独滞在のときの定宿定室)。旧日本人街の近辺にある静かな五つ星ホテル。部屋代は朝食付450元。6000円弱。朝食は和洋中のバイキングスタイル。山海の珍味とはいかないが、質、量とも日本の一流ホテル並みである。日本人利用客は少なく、あってもビジネスユースが大半である。

ロビー横のカフェで中国茶を飲む。28元。備え付けの「コンシェルジェ大連」を読む。広告料収入ですべてを賄い無料である。毎月発刊。三分の二が広告。その殆んどはカラオケ(BAR/CLUB)、日本料理店、焼肉店(日韓)。甘い言葉と美人が満載。後の三分の一は、中国の税法解説や経済特区の優遇措置等のまじめな記事。特集でショッピング案内や景勝地案内。在大連日本人会会員の入退会のニュース等々。結構面白い。

 9時

稲わらの仕入先 大連雪龍副農産品有限公司に向かう。約2km強。タクシー代8元。同社の日本人顧客はホテルへの送迎は同社の社用車を使うことが多いが、わたしはしない。因みに公司とは会社の意味。中国の<有限>は日本と違い大会社。

中山区同興街 郵電ビル23F。延べ400平方米のオフィス。大連のビル内オフィスは基本的に買取物件。ビルに入る前にビル横の果物屋に寄る。常連のわたしを見つけるとおばちゃんが満面に笑みを浮かべながら大声を出しながら駆け寄ってくる。<好久不見(ハオチュウプチェン)>。お久しぶりといつたところである。ここで30人分相当の果物を買う。大体100元まで。いつもたっぷりとおまけをくれる。それが半端な量ではない。ホテルに持ち帰るが一週間でも食べきれない。わたしは雪龍の女子社員には人気がある。果物の効用である。資生堂の廉価版や文具等も土産に持って行く。これも喜ばれる。資生堂製品は現地OLには高嶺の花の垂涎物である。

雪龍の対日担当者は基本的に女子社員である。社長方針である。10年ほど前の創業時は男子社員であったが、陰で裏取引をして損害を受けた。以来、男子社員は前面には出さない。雪龍は総社員数約2000名の大企業である。わたしが接するのは本社メンバー(30人程度)中心であり、現場社員との接触は工場長どまりである。商談、特に価格折衝は社長の専権事項であり、他の幹部社員といえども例外ではない。他の会社でも同様である。大国有企業ともなればそうではないらしいが、わたしの取引会社(独資、合資の民間会社)の場合、おしなべてそうである。女子社員はたいてい日本語ができるので、言葉による不自由は一切ない。中国語を流暢に駆使すれば、また一皮剥けた交流ができそうだが、浅学非才と諦めて、日本語で押し通している。

彼女達の給料は、大卒初任給月額1000元ぐらいから始まり、2年後には1500元ぐらいになる。雪龍は日本独資会社の形をとっており、経営は自由である。社長方針もあり利益配分賞与が厚い。毎年の春節に支給される賞与は半端な額ではない。月給の10倍から30倍に及ぶ。これが大連の企業の平均的な姿かどうかはわからないが、一般に外国との関与が高いほど(その極点は外資会社)給与は高額となる傾向がある。もっとも30倍という数字は日本流にいえば執行役員常務取締役クラスが対象である。

 しかし、彼女たちが自立して単独で暮らすのは至難の業である。親元から通勤する場合はともかく故郷を離れて大連に来た者はたいてい友人、兄弟たちとの共同生活が一般的である。大きくふたつの理由がある。家賃が彼女たちにとっては高すぎるのがひとつ。親兄弟に対し少なからぬ仕送りを絶やさないのがもうひとつの理由である。特に農村出身者の仕送金額の収入に対する割合は極めて高率である。苦しい家計の中から大学に送ってくれた両親の辛苦を思えばそうすることが当然と彼女たちは言い切る。日本ではあまり見られなくなった光景である。そんな話を聞くとまた中国が好きになる。


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