井伊直弼の埋木舎

 JR米原駅から京都寄りに一駅進むと、丘の上に天守閣を抱く彦根城が見えてくる。彦根駅前の広場には、馬に乗った初代彦根藩主・井伊直政公の銅像がある。関ヶ原の戦いで功をあげた徳川四天王の一人である。彦根35万石を与えられた彼は、城の完成を待たずして亡くなったが、息子達により1622年彦根城は完成した。(右は井原君の撮影・クリック下さい)

 彦根城は琵琶湖の東岸に位置し、京都へは船便が便利であり、江戸へは関ケ原を経て平地が続く。また、湖北は敦賀湾を経て日本海側からの物資の移動にも便利である。すなわち、この地は江戸と京を結ぶ最重要地である。徳川家としてはこの要地に井伊家を配置し、京都ならびに西国に睨みを聞かせていたのである。

幕府の非常時に置かれた、10万石以上の譜代大名より選んできた大老職12名の内、5名が井伊家から出ている。これからも徳川家が井伊家を如何に信頼していたかが伺える。

1815年、井伊直弼は、11代城主・井伊直中の14男としてこの世に生を受けた。城中で不自由なく育った彼は、5歳の時母・お富を亡くし、17歳の時父・直中を失った。父亡き後、藩の定めとして後継者の12代直亮を残して、兄弟は養子にいくか、300俵の捨扶持を貰って城外に屋敷を作り、出て行く慣わしであった。多くの兄・弟は養子に納まったが、体格が良く余りに明晰な直弼は、却って縁組先で敬遠され、養子の口が纏まらなかった。そこで堀に面した北側に中流藩士なみの家を建て、ここに32歳まで住むことになった。彼はこの家を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、「世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋もれておらむ心なき身は」の歌を詠んでいる。この地で、彼は禅・居合・兵学・茶道・国学・和歌など成すべき全ての修養に励み、いずれも一流の域に達していた。

 1846年、男子に恵まれなかった12代直亮は、弟・直弼を養子に迎える。他の兄弟は既に早逝もしくは養子に行っており、直系の男子は直弼だけが彦根に残っていたためであった。直弼32歳の時である。14男であり一生下積み生活を覚悟していた直弼にとって予想もしていなかった出世であった。

 江戸詰となった直弼は、1847年浦賀海岸の警備を命ぜられ、その任に就く。次いで1850年直亮の死と共に直弼は、13代藩主となり、翌年久しぶりに彦根に一度帰国。仁政を敷くべく、「家老でも不道理な事を申せば正論で押し返してもよい。権威を恐れ、追従軽薄の者は不忠の至りである」と述べている。

 1853年ペリー提督が4隻の軍艦を引き連れて浦賀に来航、一年間の検討猶予期間を説いて帰国。この折、直弼は種々検討の上、将来の日本の進むべき道として必要な「開国論」を展開した。翌年ペリーは約束どおり再来航して幕府と「日米和親条約」締結。一方、彦根藩はこの年浦賀警備を免ぜられ、京都守護職に専念するよう命ぜられる。

 1857年京都守藩の功績で、直弼は従四位上に叙せられる。次いで1858年大老職に就任した。直弼は独断で「日米修好通商条約」を調印する。この行動は、浦賀でアメリカの艦船を眺め、外国との武力差を実感していた直弼にとって、条約を締結することにより日本の植民地化を避けようと熟慮した結果である。さらに同年安政の大獄で、徳川慶喜を隠居させると共に、尊王攘夷派の処刑に踏み切った。

 186033日上巳の節句のため登城しようとしていた直弼は水戸脱藩浪士達により桜田門外で襲撃を受け一命を亡くす。

 彦根城への道の脇に大老の歌がある。「あふみの海磯打つ波のいく度か 御世にこころをくだきぬるかな」(琵琶湖に波が繰り返されるように、日本の国に幾度も波が押し寄せてきた。真に日本の平和と安泰を願って全身全霊を尽くしてきたので、後悔はない。波が引くような気持である)亡くなる年の正月に作った歌である。 若い頃、「埋木舎」での鍛錬と修養が大器量を育てたのであろう。(左は井原君撮影の埋木舎・クリック下さい

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