母への想い

この511日に92歳で母は亡くなった。脳梗塞で倒れて1年8ヶ月の間8ヶ所の病院や老健を転々とした闘病生活であった。

母が去って4ヶ月、いろいろなことが思い出される。まだ幼い頃お腹が痛いと言って寝ている私に、“のノ字“にお腹を押さえていると良くなるよと何時までも触ってくれた手の温もり。九州久留米に疎開していた頃、ロツキードが来たと喜んで見ていた私を慌てて物陰に連れ込んだ母の恐ろしい顔。久留米の先の城島で長崎の原爆雲と思われるものを母と見た夏の空、蓮の堀に囲まれた座敷で母やおじさんなど大人達に混じって聞いた玉音放送。

1年余りの疎開を終え迎えに来た父と家族揃って大阪に帰った。5年生になって父の仕事の関係で大阪城近くの府庁官舎に転居した。同じ大阪市内でも南の外れに住んでいたので、大阪のど真ん中の環境に圧倒された。生活が苦しくて小学校では冬でも私ひとりが半ズボンだった。その頃、母は縁側で、遊びに来た松原えいこさんや御池いづみさんと一緒にさやえんどうを剥きながら、ひばりの歌を唄ったと彼女達が懐かしく語ってくれる。中学・高校になってからも家が近いと言う事で友人達がよく遊びに来てくれた。井上淳君は母の作ったコロッケが美味しかったとか、山脇君はお前のところで生まれて初めてカルピスを飲んだなどと母に纏わる話をしてくれる。

母の自慢は小倉の田舎から津田塾に入って英語を勉強したと言うこと。時々思いだしては、「それは厳しい授業だった、答えられなかったら何時までも残されたのよ。晩年の津田うめ先生が番町の校舎に来られてお話したよ」などと。日常会話で英語が混じるのを子供時代から当たり前に聞いていたが、その割に私の英語が出来なかったのは何故かな?母は仕事には就かず、従って勉強した英語も有効に使うことはなかった。忙しかった父の有能な秘書役は勤めたが、それ以外はいつも歌って明るく生きた。

1994年に90歳で父が亡くなったが、家内がおばあちゃんの気分を変えてあげよう、毎週一回家へ呼んで食事をしようと提案してくれた。兄夫婦と同じ敷地に住んでいたが、週一回位気分を変えようと言うことから始まった。車で10分くらいのところへ住んでいた母を毎週末に迎えに行って、お酒を飲みながら孫の話をしたりして食事が終わったら送って行くという生活がパターン化した。父の死による落ち込みから戻って元気になり、池田市に住む母の3歳下の妹と我々夫婦で良く旅行もした。孫が帰阪したら食事に行ったりと賑やか好きの母は元気に余生を送った。これはボケ防止にも効果があったかなと思う。
倒れる2日前に我々夫婦と長男の嫁と次男の5人で家内の誕生祝いを近くの店でやったのが元気な母の最期であった。

敬虔なクリスチャンであった母の為にギリシャ正教の教会で、多くの方に参列して頂いて立派な葬儀を執り行うことが出来た。今は父母の住んだ家も解体整理したので寂しい思いだ。最近、世代交代と言うことを感じている。私も会社からリタイアする年代だし、子供達が社会の中枢になって行く歳だから当然なのだが。井上靖の文章に「親は自から子供の命をガードしている、親が亡くなるとその子供は初めて自分の死というものを考え始める。」と言った意味の言葉を書いていたことを思い出す。

以上少ししめっぽく書いたが、私はよく遊ぶと周りから言われる方なのでこれからは更に、良く遊んで人生を楽しみたいものである。お付き合いをよろしくお願いします。

                              (H15.9.5 山川正彦)

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