日本のふるさと・出雲の国

一畑電鉄出雲大社前駅を右へ進むと、大鳥居の手前に「雲太」(うんた)という古代出雲大社模型展示館がある。館内に長い階段・スロープのついた頂点に大社神殿の模型がある。  

この模型は島根県立松江工業高等学校建築科の生徒による作品で、平安時代の大社神殿の110の大きさにて再現されており、神殿の先端の高さは5mである。

平安時代の書物“口遊”に「雲太・和二・京三」の言葉があり、これは「出雲太郎・大和二郎・京三郎」を意味し、さらに一番が出雲大社の神殿、二番が東大寺の大仏殿そして三番が平安宮・宮城の大極殿の意だそうである。出雲大社神殿の平面が大仏殿より広かったとは、到底考えられないので、高さの順であろうと推定されていた。

平成12年、拝殿北側の大社遺跡で、平安末期にあったといわれる神殿の御柱の赤く塗られた根本が検出された。その大きさは、一本当り直径1.4mで、3本を合わせると御柱の直径は3m余りになり、この御柱の組合せを9組立てた上に神殿が載せられ、その高さは中古の奈良大仏殿より3m高い、48mであると推定するのが書物との整合性で、適切であるとの結論となった。現在、神殿の前の広場には御柱痕の赤マークがいくつか書かれている。

「雲太」・一番は、中国から伝来した仏教・大仏殿に、どうしても日本古来の神道・出雲大社が負けたくなく、高さで優位性を保持したかったのであろう。

出雲の守護神・大国主神には、有名な“因幡の白兎”の話がある。鰐の背中を飛び越えた兎が、渡り終わる前に“だましてやった!”の一言で毛をむしりとられ、通りかかった神々に海水で洗え!の教えで、大変痛い経験をした後、大国主神からの“水門の真水で洗い、蒲の黄色の花粉をとって、その上に転がりなさい。”の助言により回復した。

話にはこの続きがあり、嘘をついた兎を助けた事を知った多くの兄弟神は怒り、種々企み、大国主神を大木に挟み殺してしまった。しかし、母神に助けられ、再び活躍する。更に天照大神の弟・須佐之男命(すさのおのみこと)のいる黄泉(よみ)の国を訪れ、命の美しい娘神・須勢理比売(スセリ姫)と出会い相互に好意を抱く。その後も大国主神は試練を続けられ、スセリ姫と協力してムカデ退治などをする。さらに須佐之男命の命令により出雲の国を任され、スセリ姫と結婚して、この地・出雲を統治することになった。

大国主神が別名“だいこくさま”と呼ばれるようになったのは、神仏習合の室町時代以降に仏教の「大黒天」と大国主神の「大国」を同じ神様(仏様)として信仰し、こう呼ばれるようになったようである。温和な“だいこくさま”が日本国の元祖であったため、仏教も伝来後、うまく育ってきたのであろう。

本殿の左奥の“彰古館”には、北海道・小樽市の佐藤仁一氏寄贈による大小さまざまの“365体のだいこくさま”が飾られている。荷物を担いだ笑顔の神様は、日本だけであろう。

“だいこくさま”をイメージする時、暖かさを感じる。

出雲をこよなく愛した小泉八雲氏は言う。“余が出雲大社を見たということは、ただ珍しい社殿を拝見したということに止まらず、それ以上のものを見たことになるのだ、出雲大社を見るということは、取りも直さず今日なお生きている神道の中心を見ることなのだ。”   

この大社の地に限らず、小泉八雲氏が過ごされた松江の城下町を歩く時、日本のふるさと・出雲の国のほのかな温もりを感じる。

10月のことを神無月と呼ぶ。この月、八百万の神々が出雲に集まり、会合を開くため、出雲では神有月と呼ぶ。その証拠に、“有”の字は“十(=ナ)と月”からできていると説明する。今も神有月には、大国主神が主宰神となり、神儀(かみはかり)事として、国民の安寧を祈りながら、今後この国をどうするものかとお迷いであろう。

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