四国南端の足摺岬で見たもの

井原 博之  

 四国最南端の足摺岬の絶壁と福沢諭吉に英語を教えたと言うジョン万次郎を詳しく知りたいと思い、南国土佐を訪れた。足摺の名は、昔この地を訪れるには、大変遠く足を摺りすり歩いて来たことに由来する。足摺半島は手前の土佐清水港で少しくびれており、太い陸繋島のような形で繋がり、その先の部分の面積は伊豆大島の1/2程度である。先端の足摺岬は硬い花崗岩でできており、明るい色を呈している。足摺岬の先端には灯台があり、直ぐ東に展望台、さらに北側に天狗の鼻が伸びている。絶壁から見下ろす岩場の波は激しく、力強い。展望台近くに東方を睨む中浜万次郎像がある。像の少し西に3階建ての“ジョン万ハウス”があり、裏に白山洞門がある。ハウスの2階に、ジョン万次郎漂流150年を記念して1991年に執り行われた土佐清水市の記念行事がビデオで紹介されている。

 万次郎は、182711日足摺半島の西海岸・中浜村で、漁師、悦介・母汐の次男として誕生。9才の時父死亡、10才で今津嘉平宅の下働きにでる。1841年、14才の正月足摺岬で4人の仲間とアジ・サバ漁中、嵐に遭い漂流。当時東海沖にあった冷水塊のため、黒潮異変があり、潮流が南下して10日後、八丈島の遥か南の無人島・鳥島に漂着。ここで5人は僅かな留水とグミの実、海草、アホウドリを食して143日間生き延びる。親鳥がヒナにえさを与える瞬間に大声で脅し、ヒナへの魚を横取りするすべを覚える。182050年代はアメリカの捕鯨がピークの頃で、鯨油を求めて、我国の南海に盛んにきていた。

 1841627日、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号の優しい船長ホイットフィールド氏に救助され、ハワイへと向かう。船長は万次郎の努力家精神と利発さを認め、本国での留学を薦める。翌年、万次郎は仲間と別れ、本国マサチューセッツ州のフェアヘーブンに行き、オックスフォード校(初級)およびバートレット専門学校(上級)で、英語、数学、測量、航海、造船技術等の教育を受ける。

 1846年より4年間、米国一流の捕鯨船フランクリン号にのり、世界7つの海で活躍する。この間一等航海士兼副船長となる。1850年お金を貯めた万次郎は、ホノルルで漂流仲間と合流し、ボート・アドベンチャー号を購入して、中国行き汽船サラボイド号で琉球諸島沖迄行き、アドベンチャー号に乗り換え18511月沖縄本島に上陸。この地で6ケ月余りを過ごす。同年7月鹿児島南端の山川港着。島津藩主・島津斎彬公に度々城内に召され、じきじきに米国事情について詳しく質問を受ける。この地で50日間を過ごし、同年9月長崎着。9ケ月に及ぶ厳しい取調べを受け、18526月長崎を後に長州・三田尻を経て、愛媛の三津浜経由で7月高知着。土佐藩主・山内容堂公の命により、吉田東洋から70日間の取調べを受け、105日中浜の母に1110ケ月ぶりに会う(僅か5日間)

 山内容堂公は万次郎と同い年であり、親しみを覚え、その後もお城で色々な質問をした。万次郎は、同年土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授となる。さらに翌1853年「幕府直参の旗本」となり、中浜万次郎を名のる。この頃、福沢諭吉に英語を教えたようである。1860年咸臨丸で勝海舟船長、福沢諭吉らと万次郎は遣米使節の通訳として乗り込んだ折、浦賀を出帆した翌日から大しけが続き、予定のサンフランシスコ到着が危うくなり、勝船長も心配した。万次郎は、航海上の事一切を任せてくれれば、必ず無事着港することを約束し、勝は万次郎に一切を任せた。万次郎は事実上の船長となり、無事予定通りシスコに到着。勝の熱い感謝を受ける。帰国後、万次郎は東大教授も務めている。

 薩摩・長州・土佐藩が起こした明治維新の源流は、185152年の万次郎帰国時に始まると感じる。吉田松陰が1854年ペリー再来の折、無鉄砲にも頼んだ留学要望の背景には、噂で聞いた万次郎の“優しい米国の捕鯨船長の話”があったのでは?の考えが浮かぶ。

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