子孫に美田を残さず

平成15年7月3日

藤原 靖


明治生まれの我が父の信念であり、口癖のように言っていた言葉が「子孫に美田を残さず」であった。
私が生まれた大阪市内の我が家は、終戦の年の3月に戦災で丸焼けになった。文字どうりの裸一貫ではじめた我が父の大仕事は、仕事休みに食料調達であった。そのような父には残す美田など持っていようはずがない。夫婦共働きで、昭和34年にやっと郊外に家を建てた、強いて言えばそれが唯一の財産である。それなのに、飲んでは「子孫に美田は残さず」だからな、と言っていた。
自分がその年になり、老後を考える今日この頃、父の生き様、死に様を顕彰してみた。
父も母も師範学校を卒業して、小学校の教師として停年を迎えるまで勤め上げた。二人の退職金は、多分家のローン返済で消えてしまったのではないか。しかし、その時はまだ大学生であった、2人の弟たちも卒業して自立してしまった後は、二人分の恩給で充分生活できた。生活出来るだけでなく、年に2,3度二人で旅行を楽しむ余裕もあった。又、父は若い頃から最高の贅沢趣味と信じ、何時の日かその趣味の実現を夢見続けていた、演能を、退職後数回演じる余裕もあった。経済的には、まだまだ余裕があったのだろうが、次第に声が出ない、足が弱る、で自分が演じる事を断念せざるを得なくなった。自分が71才の時に妻に先立たれ、それ以後は能舞台に立つこともなく、旅行も機会が少なくなってしまった。死ぬときには、小銭であっても残すまい、との思いからか何か理由をつけては孫を集めて、お年玉、食事会などで散財して楽しんでいた。
その父は78才の2月心筋梗塞で母の後を追った。もうすぐ紅梅が咲くから、遊びに来てよと、孫(我が息子)のさそいに答えることもなく。
父は信念どうり美田は残さなかった。しかし、我が家には喜多流の謡本30巻と、数本の扇、庭には鹿児島産だという紅梅を残している。その梅は、梅の花が大好きだった父の思いを知ってか、2月には必ず真紅の可愛い花をつける。紅梅は何故か香りがない。香りのない分、色で存在を主張しているようである。
徳島の我が家には、父の残した物がもう1つあった。賽銭箱の形をした貯金箱である。阪神タイガースフアンの父は、タイガースの試合のある日にはテレビ、ラジオで応援である。ただ応援しているのもつまらないので、孫相手に賭けをするのである。孫も皆タイガースフアンなので、どちらが勝かではなく、何点差で勝つか、等と点差を賭けにしたりしていた。その時の敗者が、賽銭として掛け金をいれていたのである。父が亡くなって16年、その事を覚えている者は私1人になってしまった。埃りをかぶって、何時までも棚にあるのが気になっていたので、今年の2月、実家の弟が、父17回忌の法要をすると言ってきたので、思い切って開けてみた。4270円あった。父の好きだった「銀装のカステラ」を、我が3人の子供達の名前でお供えした。
父は5人の子供達が争わなければならないような、美田は残さなかったが、私には沢山の思い出を残してくれた。他の兄弟がどの様に思おうとも、私の取っての大切な財産になっている。

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